5.二人の医師(1)

(わざわざ東京まで来て、結局は何の収穫もなかった……)
山崎探偵事務所を後にした折原源一郎は、無力感に苛まれながら六本木の街を歩いている。
山崎を訪ねる前に遠山家にも訪問を申し入れたが。なにかひどく品の悪い女が電話に出て、けんもほろろの対応をされた。
今からなら最終のひかりに間に合うが、とてもこのまま京都に帰る気にならない。それに妻の珠江が失踪してからというもの、帰っても待っているものは誰もいないのだ。
心配した母が食事を作りに来ようかと言ってくれるのだが、大のおとながもう七十を越えた母に頼るのも気が引ける。それに何より折原は自分が弱っている姿を母親に見られたくはなかった。
折原はふと、ビルの地下にあるバーの看板に目を止める。あまり酒が強い方ではなく、そのため一人で酒場に入ることなど滅多にない折原だったが、ふらふらと引き寄せられるように店に入る。
カウンターに座った折原にバーテンダーが会釈をする。
「ハイボールを」
「承知しました」
バーテンダーがうなずき、背の高いグラスにウィスキーとソーダを注ぐ。一口飲んだ折原は思っていたよりもアルコールが強いのに小さく咳き込む。
改めてゆっくりと飲み干した折原はバーテンダーにお代わりを注文する。炭酸の刺激が心地よく、また意外に喉が渇いていたのか折原は自然にピッチを速めていく。
(俺はこれ程まで珠江に依存していたのか……)
折原はいまさらながら自分の中で、妻の珠江がいかに大きな位置を占めていたかを思い知る。
研究者として、また医者として多忙な生活をおくっていたため結婚が遅くなった折原は珠江とは年齢が一回り以上離れている。しかしながら大学とその付属病院という狭い世界しか知らない折原にとっては、社交的な珠江は年下にもかかわらず姉のような、また母親のような頼れる存在だった。
結婚して五年以上経っても夫婦がまだ子供に恵まれないことを老いた母は心配するが、折原はむしろ子供のいない妻が三十になっても依然瑞々しさを保っていることに満足していた。
珠江が子育てのせいで所帯やつれしたり、またはよくあることだが子供に珠江の愛情を奪われるくらいなら、このままずっと、夫婦だけの暮らしでも良いとまで考えていたのだ。
(こんなことなら子供のことをもっと真剣に考えておくんだった。珠江にそっくりの娘でもいたら、まだ心が癒されただろう)
そんなことを思った折原は、妻がもう帰らぬかも知れないものと考えていることに気づき、愕然とする。
(馬鹿な……俺は何を考えている。山崎なんて探偵に断られたくらいでどうして弱気になっているんだ)
「まったく、とんだ名探偵だ」
そんな自分の思考を読んだような言葉が聞こえたので、折原は驚いてあたりを見回す。
見ると、カウンターの端に三十歳くらいの男が座り、ロックのグラスを傾けながらぶつぶつ呟いていた。その顔に見覚えのある折原はまじまじと男を見つめる。
(あれは……)
記憶を呼び起こされた折原は、男に声をかける。
「内村君、内村君じゃないか」
折原の声に男ははっと顔を上げる。
「折原先生?」
男は個人経営の病院としては東京では有数の規模を誇る内村病院の院長の一人息子で、内科部長を務める内村春雄であった。かつて折原が勤務する大学病院で一時期、研修医として過ごしたことがあり、折原とはいわば師弟の間柄だった。
「先生、東京へはどうして? 学会か何かですか?」
「いや、ちょっと野暮用があって……」
折原の妻であり、千原流華道後援会長の珠江が家元令嬢である千原美沙江とともに謎の失踪を遂げたことは京都の新聞の社会面ではかなり大きなスペースを使って報道されていた。同時に珠江が京都では一種の名士である折原教授の妻であることも書かれていた。
つまり折原は京都では「妻を失った男」という哀れみのこもった目で見られるようになっている。
近ごろは担当の患者までが「折原先生、奥様のことご心配ですね」とか「まだ家に帰られないんですか」といった風に声をかけてくる。ほとんどは悪気がない、むしろ善意からの言葉だが、折原は自分を見る視線の中に抑え切れない好奇心が含まれているような気がしていたたまれなくなるのだ。
折原が京都に帰りたくないのはそういった事情もあった。何ものかによって理不尽にも妻を奪われた折原がコキュ(寝取られ夫)のように見られるのは極めて不条理なことだった。
「君こそ一人とは珍しいね」
内村はやや軽薄で陰影にかけるところがあるが、良家の息子らしく素直で社交的な性格であり、常に友人に囲まれている。確か結婚を控えた恋人もいたはずだ。
「最近はずっとこうですよ。誰も僕には近寄りません。まるで腫れ物に触るような態度です」
「何かあったのかい?」
「先生、ご存じないんですか? そういえば先生はずっと京都だから、そちらではあまりニュースになっていないかも知れませんね」
内村は口元に笑みを浮かべながらそう言う。
「四ツ谷に村瀬って、大きな宝石店があるのをご存じでしょう?」
「知っているよ。それがどうかしたかい?」
妻の珠江が間接的にその宝石店の令嬢を知っており、東京に出た時に何度か装飾品を買ったはずだ。
「その村瀬社長の娘と息子が誘拐されたんです。誘拐犯から一千万円の身代金の要求があったが、人質と身代金の交換に失敗。二人は行方不明のままです」
「そんなことがあったのか……」
折原は妻の珠江と、千原流華道家元令嬢の美沙江の失踪と同じような事件が、ほぼ同時期に起きていたことに驚く。
(まてよ……確か珠江が間接的に村瀬の令嬢を知っているのは……)
遠山夫人を通じてではないか、と折原は思い至る。
珠江と遠山財閥の静子夫人がともに千原流華道の後援者であり、親友といって良い仲だった。また村瀬の令嬢は、日本舞踊の名取である静子夫人の弟子だったはずだ。
(そういえば、珠江が上京した時に遠山夫人と村瀬の令嬢の踊りの発表会を見にいったと話していたことがある)
「もっとも、二人が失踪したというのは報道されていますが、身代金うんぬんの話は人質の安全のため、警察が抑えています。先生が知らないのは無理もありません」
「君はなぜそんなに詳しいんだい?」
「なぜ詳しいかですって?」
内村はさもおかしそうに笑い出す。折原は怪訝な表情で内村を見る。
「失礼しました」
内村は笑いを抑えてグラスに残ったウィスキーをぐいと飲み干す。
「村瀬宝石店の令嬢、小夜子が僕の婚約者だからですよ」
「何だって?」
折原は驚いて内村の顔を見る。

Follow me!

コメント

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました