11.母親二人(2)

「なるほど」
千原流の家元夫人が一向に表に出て来ないのはそんな理由があったのか、と山崎は納得する。
「しかしそのために、珠江様が美沙江とともに失踪するといった事態になったのです。もし美沙江が村瀬のお嬢様と同じ誘拐犯にさらわれたのなら、珠江様も同様かと思います。私が甘えたばかりに珠江様に危険な目に遭わせているとしたら、折原先生に顔向け出来ません」
「折原先生とは医学博士の折原教授のことですね?」
「ご存じでしたか」
絹代はこくりと頷く。
「先生は消化器内科の権威で、とても大事な方です。私達だけのことならともかく、折原先生のお心まで悩ませるのは耐えられないのです」
山崎は先程事務所を出たばかりの折原の疲れ切った表情を思い出す。妻がいなくなったというだけであの憔悴ぶりでは、もし珠江夫人が静子夫人や京子と同じ目にあったとしたら頭がおかしくなるのではないかと山崎は考える。
いや、山崎自身も既におかしくなっている。京子を失ってからというもの、あれほど情熱を傾けていた探偵の仕事に対して、すっかりやる気を失っているではないか。
「すると、絹代さんがこちらにいらした趣旨は?」
「娘のことももちろん心配ですが、折原の奥様をなんとしても捜し出していただきたいのです」
絹代は真剣な表情を山崎に向ける。
「元康の看護に忙しい私に代わって、美沙江のことを妹のように、また時には娘のように慈しんでくださった方です。そのような方にご迷惑をかけて平然としているようでは、千原流の名が廃ります。今こそ私が折原先生と奥様にご恩返しをする時だと、京都から出て参りました」
「ご主人のことはいいのですか?」
「気の利いた女中に任せて参りました。最近なぜか若い女中が二人、急に辞めたため、人が足らないのは確かなのですが、美沙江がいなくなったために千原流は開店休業ですので、それほど困りませんわ」
絹代はそう言うと微かに笑う。
「女中が辞めた?」
「最近の若い娘さんは根気が続きません」
「それにしても、二人同時にですか?」
「はい」
山崎はなぜかひっかかるものを感じる。その様子に山崎が心を動かされているのかと考えた美紀夫人は、意気込んで尋ねる。
「報酬は十分にお支払いします。いかがですか、山崎先生。受けていただけますでしょうか?」
「報酬が問題ではありません」
山崎は首を振る。
「私は、遠山静子夫人と桂子嬢、村瀬家の姉弟、野島京子と美津子さん、そして千原美沙江さんと折原珠江さんの8人は、すべて同じ組織によって拉致されたものと考えています」
美紀と絹代の表情に緊張が走る。
「それほどの大胆なことが出来る相手と戦うだけの力は、今の私にはないのです」
「先生は、助手の京子さんを取り戻したいとは思わないのですか?」
「もちろんそれは取り戻したいです」
美紀の問いかけに山崎は頷く。
「しかし、一人ではどうしようもありません」
美紀と絹代の顔に明らかな失望の色が浮かぶ。それまで黙って聞いていた久美子が耐えられなくなって口を挟む。
「お兄さん、しっかりしてよ。どうしてそんな風になっちゃったの!」
「久美子、仕事の話だ。お前は黙っていろ」
山崎が久美子を制する。
「仕事の話じゃないわよ。京子さんを助けないでいいの? お兄さんの恋人でしょう。それだけじゃないわ。美津子さんだってまだ高校生なのに、惨い目にあっているのでしょう。それを放っておくなんて、お兄さん、それでも男なの?」
「美津子さんが……」
美紀が驚きに目を丸くする。
「美津子さんまで誘拐されているのですか? ひょっとして、文夫の巻き添えになったのでは」
「いえ……」
そうではなくて、まず京子が捕らわれたせいで芋づる式に美津子、そしておそらく文夫、小夜子が森田組の手に落ちたのだ。そういう意味では、村瀬姉弟の誘拐の原因の一つは、京子に対して危険な指示をした山崎にあるといって良い。
「明智小五郎の再来と言われた山崎探偵が、どうしてそんなに弱気になるのよ」
「山碕は明智の負け戦だからな」
「冗談を言っている場合じゃないわ!」
自嘲的な笑みを浮かべる山崎を、久美子が目を吊り上げて叱咤する。
絹代がすがるような目を山崎に向けている。絹代は娘の美沙江よりも、巻き添えになった折原珠江を案じている。もちろん母親として娘が心配でないはずはないが、それを必死で抑えて、病弱な夫を京都に残して山崎を頼ってきたのだ。
(それに比べて俺は……)
後に引けなくなった、と山崎は感じる。村瀬美紀と千原絹代の依頼を受けて、再び立ち上がるしかない。
「お前の言うとおりだ、久美子。俺は弱気になり過ぎていた」
山崎は久美子に向かってそう言うと、二人の夫人に向き直る。
「わかりました。出来るだけのことはやりましょう」
山崎が思い切って答えると、美紀と絹代の顔色はパッと明るくなるのだった。

「とは言ったものの、一人では情報集めだけだも大変だ」
美紀と絹代が帰った後で、山崎はつぶやく。
「こんな時に京子がいてくれたらな……」
「助手なら一人いるわよ」
久美子が微笑して手を上げる。
「何を言っているんだ」
山崎は苦笑して首を振る。
「相手がどんな連中か分かっているのか」
「分かっているわよ。ポルノ写真や秘密映画の販売を生業にしている下劣なやくざでしょう?」
「久美子……」
山崎は驚いて妹の顔をまじまじと見る。
「女の敵だわ。そんな連中に美津ちゃんまで囚われているのよ。黙っていられないわ。
「危険だ、あの京子まで捕まったんだぞ」
「京子さんが潜入捜査を行っていた葉桜団ってズベ公は、私と同年代なんでしょう? 私の方が情報を集めやすいわ」
久美子が真剣な表情で山崎を見つめる。京子と美津子とは実の姉妹のように仲が良かった久美子のことだ。今回の件でもじっとしてはいられないのだろう。
どうせ誰かの手を借りない訳には行かない。確かに久美子は探偵調査については素人である分、慎重になるだろう。
「くれぐれも危険なことはやるな。何をするにも俺に報告してからにしろ」
「それじゃあいいのね?」
「ああ」
「わあ、一度女探偵っていうのをやってみたかったのよ」
久美子がはしゃいだ声を上げる。
「遊びじゃないんだぞ」
「もちろんわかっているわ、兄さん、いえ、所長」
久美子が微笑する。
「山崎探偵事務所の復活ね」

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