「私は小夜子と文夫が無事に帰ってくればそれでいいのです。誘拐されている間何が起こっても、それは犬に噛まれたようなもの。時間が経てばきっと癒されるはずです」
 そうだといいのだが、と久美子は考える。あのチラシに描かれたようなことが本当に誘拐犯たちによって行われているのなら、犠牲者たちはもはや取り返しのつかないほどの心の傷を負っていることだろう。
 だからこそ一刻も早く捕らわれの男女を救わなければならない、今回の美紀と絹代による囮作戦がおそらくは最後のチャンスなのだ。久美子は緊張するとともに、身体の奥から闘志がわいてくるのを感じる。
「美沙江さんは大丈夫だと思いますわ。折原の奥様がきっと守ってくれているでしょう」
 美紀は絹代に慰めるように声をかける。
「それは、珠江様が美沙江の身代わりになっているということでしょうか」
「そこまではなんとも……」
「もしそうなら私、折原先生に会わせる顔がありません。本来なら私が表に出て行わなければならない千原流の様々なことを、すべて珠江様に仕切っていただいたのですから」
 そう言うと絹代は悲痛な表情を久美子に向ける。
「久美子さん、先ほどは自信がないなどという甘えたことを言って申し訳ありませんでした。私、誘拐された皆様のためにこの身を捨てる覚悟を決めましたわ」
「そのお覚悟は大変結構なことだと思いますが……」
 久美子が苦笑する。
「絹代さんも美紀さんも、いけない遊びに興味がある好奇心の強い奥様という設定です。もっと肩の力を抜いてください」
 久美子の言葉に美紀と絹代が同時に頬を染めた時、「どん底」の扉が開き、義子とマリ、そして悦子が入ってくる。義子が久美子の姿を認めると軽く手を振る。
「あら」
 久美子は悦子の顔を見ると思わず声を上げる。
「あなたはあの時の……」
「その節はどうもお世話になりました」
 悦子はぺこりとお辞儀をする。悦子とともに歌舞伎町に繰り出していた友子と直江がチンピラにからまれた時、助けたのが久美子だったのである。
 義子とマリ、そして悦子がボックスに座り、久美子たちと向かい合う。
「こちらがこの前話した二人の人妻、夏子さんと冬子さん」
 久美子が紹介すると美紀と絹代が立ち上がり、三人の少女に向かって深々とお辞儀をする。
「夏子と申します、初めまして。よろしくお願い申し上げます」
「冬子です。どうかよろしくお願いいたします」
 品の良い二人の人妻に丁寧に挨拶をされ、義子たちはー一瞬呆気に取られたような表情になる。
「こちらこそよろしく。あたい、義子っていうんや。こっちはマリと悦子」
 マリと悦子はぺこりと頭を下げる。
「ところで早速やけれど、久美ちゃんの話やとあんたたちはご主人以外の男に抱かれるのに興味があるそうやが、ほんまかいな?」
「本当ですわ」
 美紀が平然とした表情で間髪いれず返事をしたので久美子は驚く。
「主人ったら、外に女がいるみたいで、ここ数年は私に興味を示さないのです」
「へえ、奥さんみたいに美人にねえ」
 マリが思わず美紀の演技に引き込まれる。
「美人なんてお世辞でも嬉しいですわ。でも、もう40近いおばあちゃんなんですよ」
「おばあちゃんなんてとんでもない。39歳やそうだけど、とてもそんな齢なんて信じられないわ。どうみても30歳そこそこよ」
「ありがとうございます」
 美紀は婉然とほほ笑む。
「嫉妬心を剥き出しにして主人に女と別れろと詰め寄るのもみっともなくて嫌なのです。それに、男が常に新しい女を追いかけたくなるのは本能ですからわからないでもありません。英雄色を好むと言いますし」
「えらい物分かりのええ奥さんやな」
 義子は感心したような声を出す。
「全然物分かりは良くありませんわ。やられっぱなしでは悔しいので、私も浮気をすることにしたんです。かといって後腐れのある相手は困ります。そんな時、久美子さんにここに来たらちょうど良い紳士を紹介してくれると聞いたので」
「なるほど」
 マリは納得したように頷く。
「私は――主人が浮気をして来いと」
 絹代がそんなことを話し出したので義子たちだけでなく、久美子も驚く。
「なんやて? ご主人が浮気を勧めた?」
「はい」
「そんな阿呆な話があるかいな」
「それがあるのです。私の主人は小説家なのですが、友人に妻を奪われた男の心理を描きたいから、私に協力してくれと」
「それで、奥さんは承知したの?」
 マリが好奇心をあらわにして尋ねる。
「はい、それで主人が良い作品がかけるのなら」
「それはまた感心な心掛けというか……」
 義子はマリと顔を見合わせて肩をすくめるが、やがて口を開く。
「事情は分かった。それなら早速行こうか」
「え、これからですか?」
 久美子は驚いて義子の顔を見る。
「奥さんたちにちょうど似合いの紳士たちが今夜来ることになっているのよ。気持ちが決まったらこういうことは早い方がいいでしょう。車を外に待たせているから、このまま行きましょう」
 久美子は美紀と絹代の方をちらと見る。二人は既に心を固めているのかはっきりと頷く。
「いいわ、行きましょう」
「そう来なくっちゃ」
 義子たち3人が立ち上がり、久美子、美紀、絹代の三人は後へ続く。「どん底」の外へ出ると、黒塗りの車が止っている。
「私とマリは後から行くから、悦子、あんたが三人を連れて行って上げてよ」
「わかったわ」
「帰りはちゃんと指定の場所まで送って上げるから心配しないで」
 マリが緊張気味の久美子たちに話しかけると、久美子は頷く。
 悦子が助手席に乗り、後部座席に美紀、久美子、絹代が乗り込む。悦子が運転席の若い男になにごとか話しかけると、男は無言で頷き、車を発進させる。
(いよいよだわ……)
 久美子の身体に緊張が走る。このまま葉桜団のアジトへ着けば、隙を見て兄の山崎に連絡をとる。そうすれば山崎が当局を動かし、静子夫人を始めとする美女たちを誘拐した一味は一網打尽となるはずである。
(美紀さんと絹代さんはああ言ってくれたけれど、出来れば彼女たちの身は無事であった方が良い)
 そう考えた久美子はしきりに窓の外へ視線を走らせ、アジトまでの道順を覚えようとする。