269.檻の中(1)

 静子夫人は夢を見ていた。
 高い空の上でふわふわと漂いながら、薄桃色の雲といつまでも戯れる。
 柔らかで弾力に満ちた雲は夫人の肉体にしっとりと絡みつく。吸い込まれるように雲と一体になっていく夫人の身体の中に、陶酔めいた感覚が込み上がる。甘い官能の世界に浸っていた静子夫人の前に、突如巨大な黒い雲が湧き上がる。
 黒雲は静子夫人にまとわりついていた薄桃色の雲をたちまち吹き飛ばし、夫人をすっぽりと覆い尽くす。男たちの荒々しい愛撫に似た雲のうねりに、静子夫人は荒波に揉まれる木の葉のように翻弄される。窒息しそうな苦しさから逃れようと雲の切れ目からようやく顔を出して喘いだ時、夫人の目が覚める。
 短い眠りから目覚めた静子夫人はいったい自分が何処にいるのか咄嗟に把握できず、ぼんやりと周囲を見回す。
(ここは……)
 コンクリートを打ちっ放しにした天井、薄汚れた毛布が敷かれた床、そして鉄の格子が嵌められた壁――それは静子夫人にはすっかり見慣れた、田代屋敷の地下牢の一室だった。
 昼の部の進行役を務めさせられた静子夫人だったが、ショーそのものが時代劇まがいの芝居仕立てだったため劇中に出番のない夫人は早々に舞台裏に引っ込まされた。
 その後しばらく夫人は楽屋代わりの別室で待機させられていたが、進行が当初の予定よりも大幅に遅れたため、昼の部では静子夫人をそれ以上狂言回しに使うことは中止されたのだ。
 これは静子夫人を舞台に登場させると主賓である岩崎の興味がどうしても夫人に集中し、妊娠している静子夫人に夜の相手をさせろと言いかねなかったことも理由の一つである。
 ひとり地下牢に戻された静子夫人は、日頃の疲労が溜まっていたせいか間もなく眠りに落ちたのである。
 人工授精が成功してからというもの、静子夫人は以前のように激しい調教を受けたり、客を取らされると言うことはなくなっている。安定期に入るまでは夫人に負担をかけさせてはならないというのが、スポンサーである千代の命令なのだ。
 千代は、静子夫人がこの地獄屋敷で出産した段階で、夫人を奴隷化するための調教は完成すると考えている。たとえ父親が何処の誰とも分からない赤子であっても、いざ生まれれば人並み外れた優しさを持っている静子夫人は限りない母性愛を注ぎ込むと考えられるからだ。
 子供を人質に取れば静子夫人は嗜虐者たちの言うがままになるだろう。静子夫人の人格の気高さが自らの肉体を縛る縄となるのだ。
(みんなはいったいどうしているだろう)
 静子夫人は、昼の部のショーに出演させられた小夜子、京子、珠江、そして桂子といった以前からの奴隷たち、そして美紀、絹代、ダミヤといった奴隷の列に新たに加わった女たちのことを思う。
 田代屋敷の奴隷たちには一種の連帯意識が生まれている。姉妹である京子と美津子や、姉弟である小夜子と文夫、そして華道の縁で繋がれた珠江と美沙江が互いに気遣い合うのは当たり前のことだが、美津子と美沙江、そして京子と珠江と言ったこれまで面識のなかった者同士において、同じ境遇と言うことで互いに励まし合い、いたわり合う関係が生まれてきているのだ。
 その奴隷たちの連帯の中心にいるのが静子夫人だった。人間が持つ嫉妬やエゴといった醜い感情を人かけらも持ち合わせていない、まさに天使のような性格の静子夫人は、今や他の奴隷たちからは信仰に近い敬愛と思慕を集めていたのだ。
 さらに、静子夫人が京子、桂子、小夜子、そして珠江といった女たちと同性愛の関係を結ばされたことも、そんな奴隷たちの連帯意識をいっそう強めたといえる。静子夫人は田代屋敷の男たちだけでなく、奴隷である女たちにとっても共通の恋人なのである。
 その静子夫人はひとり檻の中で、仲間たちの身を案じている。
 自分がショーに出演することを免除されたために、その分の負担が他の女たちにかかっていることは明らかである。特に珠江夫人は静子夫人の代役という重荷を担わされ、午前中のショーではあの捨太郎とコンビを組まされたというではないか。
(ああ……珠江様)
 静子夫人は捨太郎と絡まされたときのことを思い出し、背筋に寒気が走るのを感じる。ゴリラのように醜悪な男は反面驚くべき精力の持ち主であり、静子夫人は捨太郎との交合においてまさに情事の極限と言うべき経験をさせられたのだ。
(珠江様があの捨太郎と)
 子供を産んだことがないせいか、三一歳という年齢が信じられないほど若々しく清楚な珠江夫人が、あの野獣のような男の生け贄にさせられようとは。
 想像するだけで血が凍るような恐怖を知覚する静子夫人だったが、夫人は同時に己の股間がなぜか熱く火照っていることに気づく。
 はっとした夫人は思わず片手を股間に差し伸べる。妊娠してからと言うものその箇所の剃毛は控えられているため、少女のような淡い若草が夫人の手に触れる。無意識のうちに手を伸ばした静子夫人は、花壺がすっかり潤みを帯びていることに気づく。
(ど、どうしたのかしら)
 狼狽した夫人は無意識のうちに空いた手を乳房に伸ばす。子を孕んだことは間違いないとは言え、妊娠初期の夫人の腹部はそれを示すような膨らみはいまだ感じさせないが、元々豊かであった夫人の乳房はいっそう重みを増しているかのように思わせる。その先端の堅くしこりを見せている乳首が腕に触れ、夫人は思わず「あっ」と声を上げる。
 夫人の身体に表れているのは明らかに欲情の印である。愕然とした夫人の脳裡に、しばしまどろんでいた間に見た夢の内容が突然甦る。
 夢の中で現れた薄桃色の雲、変幻自在に形を変えたそれは時に京子や小夜子の、そして桂子や珠江の形を成して静子夫人に絡みついてきたのである。それは夫人がこの屋敷に幽閉されてから初めて経験させられた、妖しい同性愛の記憶だった。
 そして静子夫人を激しく蹂躙した黒雲、それは紛れもなくこの屋敷の中で静子夫人の肉体を貪った無数の男たちであった。
(淫夢に身体を濡らすなんて、何て浅ましい……)
 自分は無意識のうちに肉の交わりを求めていると言うことなのか。それほどまで自分の身体や心は、この屋敷で作り替えられてしまったのか。
 いや、もともと自分はそんな淫らな女だったのか。
 激しい自己嫌悪に苛まれている夫人の耳に、複数の足音がこちらに向かってくるのが聞こえる。
 夫人は思わず座り直す。誰かは知らないが、だらしなく眠りこけている姿を見られないで良かった。そんなことを考えている夫人の前に、銀子と朱美が現れる。
「ご機嫌はいかが、静子夫人」
 ニヤニヤ笑いながら夫人を見下ろす銀子をチラと上目遣いで見た夫人はすぐに目を伏せ「変わりありませんわ」と答える。
「それは良かった。大事な身体なんだから気をつけないとね」
 銀子は薄笑いを口元に貼り付けたまま静子夫人を品定めするように眺めている。
「そうそう、昼の部のショーだけど、ちょっと予定よりも押したけどおおむね成功に終わったわ。お客様は大喜びで、夜の部の開演が待ちきれないと言ってるわ」
 ねえ、朱美と銀子は隣にいる朱美に語りかける。
「ほんとほんと」
 朱美もまたニヤニヤ笑いながら口を開く。
「桂子と美津子、それに美沙江の卵割り競争はなかなか迫力があったわ。お客様が賭けをしたので盛り上がってね。奥様は誰が勝ったと思う?」
「さ、さあ……わ、わかりませんわ」
 夫人は当惑気に顔を逸らす。

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