「お母さん……気を確かにもって。こ、こんなことで心が弱くなっていてはいけないわ」
「こんなことって小夜子……お母さんは……」
 文夫と肉の関係を持ってしまったのよ、とはさすがに口にすることが出来ず、美紀夫人は言葉を詰まらせる。
「それがこんなことなのよ。この屋敷では、私たちは人間扱いはしてもらえない。人間としての感情を持てば辛くなるだけなの」
「人間としての感情を持たないって……それなら私たち、何を頼りに生きていけばいいの」
「動物だって親子や、家族の愛情はあるわ。むしろ人間よりも深いものもいるっていうじゃない」
「で、でも……」
 人間としたの感情はそう簡単に捨てられるものではない。美紀夫人がそう口にしようとしたとき、小夜子は、
「私、二度とお母さんに会うことは出来ないと覚悟を決めていたの」
 小夜子のその言葉を聞いた美紀夫人ははっとする。
「この屋敷の警戒は厳重で、あの京子さんが何度も逃亡を試みては失敗して、その度に酷い折檻にかけられているわ。私なんかじゃとても逃げるのは無理。それに……」
 小夜子はそこで言葉を切る。
「……私の恥ずかしい写真が友人や知人にばらまかれているからには、とても再び陽のあたる場所には出られないと思っていたの。だから、どんな形であれお母さんと再び会うことが出来たことは、たまらなく嬉しいわ」
「ああ……小夜子」
 感極まった美紀夫人は小夜子と文夫をしっかりと抱きしめるのだ。
「でも、私はともかく、文夫や美津子さん、それに千原流の美沙江さんといった若い人たちが、こんな暗い地下牢で一生を送るなんてことはあってはならないわ」
「小夜子……それはあなただって」
「三人は未成年よ、お母さん」
 小夜子の言葉に美紀夫人は再びはっとする。
「いつかは必ず救いの手がやって来て欲しい……お母さん、外はいったいどうなっているの。誰か私たちの救出に動いてくれているの」
「も、もちろんよ。だからこそ」
 失敗したとは言え、自分や千原流の絹代夫人が動いたからこそ、今の事態があるのではないかと美紀夫人は言うのだった。
「静子先生のご主人はいったい何をしているの」
「何って」
「だって、桂子さんと静子先生が誘拐されたことがすべてのきっかけでしょう。遠山家に動きがないのはおかしいわ」
「それは……」
 美紀夫人は、今の遠山家は静子夫人の後釜に座った千代が完全に牛耳っており、静子夫人の救出に動くなどということはあり得ないのだと説明する。
「千代さん……千代って人がそんなことを言っていたけど、本当のことだったのね」
「静子さまは今はその……ご主人を捨てて浮気相手と駆け落ちをしたということになっているの。今はもう遠山家では静子様の名前を口に出す人もいないわ」
「なんてこと……」
 あまりのことに小夜子は言葉を失っていると、それまで黙っていた文夫が口を開く。
「桂子さんはどうなっているの。彼女は遠山家の実の娘でしょう。いくらなんでもいなくなってそのままというのは不自然では」
「桂子さんは文夫さんの奥様だからね。気になるんでしょう」
 小夜子が微笑しながらそういうと、美紀夫人は驚いて「そうなの?」と声を上げる。
「ち、違うよ。あれは無理矢理」
「そんなこと言って、あなたも満更じゃなかったみたいじゃない」
 小夜子はそういうとクスクス笑うのだ。
「小夜子さん、おやめなさい」
 美紀夫人は小夜子を制する。
「桂子さんは誘拐ではなく、家出したということになっているのよ」
「何ですって」
 小夜子は驚いて目を見開く。
「どうしてそんなことになっているの。そもそも最初、身代金の要求があったでしょう」
「あれは桂子さんが葉桜団の仲間と組んだ狂言と言うことになっているわ」
「だって、そのせいで静子先生が誘拐されたんじゃない」
「だから静子様は駆け落ちだと」
「そんな馬鹿なことがあるはずがないわ」
「小夜子さん、落ち着いて。何も母さんがそんな風に思っているわけじゃないのよ」
 美紀夫人は興奮する小夜子を宥める。
「桂子さんはその……葉桜団という不良少女グループのリーダーだったのよ。その葉桜団が桂子さんを誘拐して身代金を要求してくるなんて、誰もが小遣いほしさの狂言だと思うのは仕方がないわ。実際、探偵の山崎さんだって初めはそう考えたんだから」
「山崎探偵……」
 小夜子は苦々しい顔で吐き捨てるように言う。
「京子さんの恋人を悪く言うのは気が引けるけど、あの人も本当に不甲斐ないわ。私たちがこんなことになったのも、あの探偵さんが失敗したのが直接の原因よ」
「そんなことはないわ、小夜子さん。山崎探偵はよくやってくれたわ」
「母さんは甘いわね」
 言い争いをする美紀夫人と小夜子に、文夫が「二人とも、いい加減にしなよ」と割って入る。
「ここで親子喧嘩しても何になるんだ。姉さんもさっき、母さんに会えて嬉しいって言ったじゃないか。明日になったらまた引き離されるかも知れないのに、言い争いをしている場合じゃないよ」
 文夫の指摘に美紀夫人と小夜子ははっとした表情になる。
「そうね。文夫さんの言うとおりだわ。お母さん、ごめんなさい」
 小夜子がそう言って頭を下げると美紀夫人もまた「母さんも悪かったわ。あなたの気持ちをもっと考えるべきだった」とうなだれる。
「でもこれだけは教えて。お父さんは今、どうしているの」
「お父さんはもちろんあなたたちのことは大事に思っているわ」
「それなら、お父さんは私たちを救出するために動いてくれているの」
「それは……」
 美紀夫人は言葉を詰まらせる。
「お父さんも苦しいのよ……お父さんは何百人もの社員の生活を預かる経営者なの。社員の生活を守らなければならないわ」
「どういうこと?」
「これ以上、小夜子や文夫を探すようなことをすると、その……村瀬宝石店の信用を傷つけるようなものをお客様に対して送ると言われているらしいの」
 美紀夫人のその言葉を切いた小夜子の顔がさっと青ざめる。
「……そう、小夜子さんや文夫さんの写真よ。宝石店は、宝石そのものだけではなく、お客様に対して信用を売っているわ。四谷の村瀬宝石店で買ったということがお客様にとっての価値なの」
「だからお父様は手も足も出せないと……」
「そんなことは言っていないわ。もちろんお父様にとっても、宝石店よりはあなたたちの方が大事よ。でも、会社がつぶれてしまうと、あなたたちを探すためのお金も出せないわ」