154.一網打尽(2)

 久美子は知らなかったがストックホルム症候群という言葉がある。誘拐・監禁されている被害者が、犯人に対して次第に同調して行くというものである。かつて新聞王で知られたハースト財閥の令嬢、パトリシア・ハーストが過激派に誘拐されて、後に自ら犯人のグループに身を投じ、銀行強盗まで働いたというのがこの典型であるが、桂子はまさにこのストックホルム症候群に陥っていたのである。
そんな久美子の焦燥をよそに、車から降りた山崎は久美子の姿を認めるとゆっくりと近づいて来る。
「久美子、無事でよかった」
「兄さん……」
来ないでっ、という言葉が久美子の喉から迸りそうになったその時、廃工場の中から川田、吉沢、井上たち十人ほどの男が現れる。
「罠か」
山崎は顔を歪めながら男たちを見回し、川田のところで視線を止める。
「あんた……遠山家の運転手をしていた……確か、川田と言ったな」
川田はニヤリと口元を歪める。
「あんたが糸を引いていたとはな。すっかり騙されたぜ。俺も焼きが回ったな」
「そうだな。名探偵で知られたあんたらしくない見落としだったな」
川田は吉沢の方を振り返り「それだけ俺の演技が巧かったってことだが」と笑う。
「俺をどうするつもりだ。殺すのか」
「岩崎一家ならそうするところだが、あいにく森田組は平和主義でね。田代社長の屋敷まで来てもらって、滞在してもらうことになるだろうね。ただし無期限でだが」
「岩崎一家だと? 女達の誘拐に岩崎一家が絡んでいたのか?」
「いや、これは俺達と葉桜団だけでやったことだ」
川田は首を振る。
「ただ、岩崎の親分が静子夫人をすっかり気にいってくれてね。ぜひ森田組のスポンサーになりたいと言ってくれているのさ。それでちょろちょろとしつこく嗅ぎ回るあんたが邪魔になったって訳だ」
「……」
山崎は無言のまま川田を睨みつけている。
「社長の屋敷での暮らしも中々楽しいもんだぜ。たくさんの美女に囲まれてな。俺なんか代わって欲しいくらいだ」
川田と吉沢はそう言い合うと顔を見合わせて笑う。
「田代社長だと? それがお前たちの黒幕の名前か」
山崎は苦々しげに吐き捨てる。
「森田組まではたどり着いたんだがその先がどうしてもわからなかったんだ」
「いまさら分かったところで遅いがね」
川田はそう言ってせせら笑うと「言いたいことは言って気が済んだだろう。手を上げてこっちに来るんだ」と山崎に命じる。
「兄さん、ご、ごめんなさいっ」
川田に命じられるまま手を上げて近づいて来る山崎を見て、久美子はわっと号泣する。
「気にするな、久美子。俺の方こそ辛いことを頼んで悪かった」
山崎は微笑すると久美子にそう告げる。山崎が久美子の傍らを通り過ぎ、桂子に近づく。
思わず山崎から顔を背けた桂子の視線がふと山崎の車に止まる。誰もいないはずの操縦席に、黒い影が起き上がったのを見た桂子は思わず叫び声を上げる。
「車がっ!」
桂子の声に男たちはいっせいに車の方を見る。山崎の車の操縦席に黒ずくめの男が座ったかと思うと、いきなり急発進させたのだ。
「しまった」
川田の顔が青ざめる。川田はてっきり山崎は一人で来たかと思い込んでいたが、車の中に仲間が残っていたのだ。
山崎の仲間は車が廃工場に入って来る時からじっと床に身を伏せていたようで、外からはまったく姿が見えなかったのである。
車はテールを振りながらUターンすると、工場の出口へ向かって走りだす。
「追えっ。追うんだっ」
川田の声に吉沢、井上、そしてチンピラたちが自分たちが乗って来た車に向かって走りだす。山崎の仲間には川田の名前も、川田が調子に乗って口走った岩崎組や田代の名前も伝わっているに違いない。それだけの手掛かりがあれば警察は容易に、遠山社長に恨みをもつ田代の存在とその屋敷を突き止めることだろう。
川田たちの車は山崎に気取られないよう遠くに置いたため、なかなかたどり着けない。川田の頭が焦燥感に熱くなる。
山崎は久美子の手を取ると「こっちだ」と言い、工場の裏手に向かって走る。
「裏に抜け道がある。さっき調べて来たんだ」
「それなら待ち伏せのことは……」
「計算済みさ。そうそうドジは踏むものか」
山崎はそう言うとニヤリと笑う。
久美子は振り向き、桂子の方を見る。
「桂子さんっ!」
一緒に逃げよう、と呼びかける久美子の声に桂子は反応せず、茫然と立っている。
「行くぞっ。久美子」
山崎に促されて久美子は諦めて駆け出す。その時、背後で甲高い急ブレーキの音が聞こえたが、山崎と久美子はかまわず走り続ける。
「久美子が逃げたぞ!」
工場の中で控えていた津村義雄の弟の清次、その仲間の三郎、五郎の三人が声を上げると裏口から飛び出し、久美子と山崎の前に立ち塞がる。
「どきなさいっ! 怪我するわよっ」
「女の癖に生意気なっ」
三郎が先陣を切って久美子に飛びかかる。久美子は身体を捻って攻撃をかわすと、すらりと伸びた足を分銅のように振り回し、三郎の後頭部に回し蹴りを見舞う。
「ぐえっ!」
脳震盪を起こした三郎が蛙が潰れたような声を上げて倒れる。
「畜生っ!」
その姿を見た清次が一瞬ひるんだ様子を見せるが、思い切って飛びかかる。
久美子はそれを待ち受けていたかのように身体を屈め、腹部に拳を見舞う。清次は口から胃液を吹き出しながら悶絶する。
「さすがだな、久美子」
その頃には五郎を打ち倒した山崎が久美子に笑いかける。
「兄さんも」
久美子は兄にほほ笑み返す。
「この先の裏道でで合流することになっている。急ごう」
山崎と久美子が再び走りだしたその時、背後で川田の叫ぶような声が聞こえる。
「捕まえたぞ!」
山崎と久美子は思わず足を止めて振り向く。
「なんてことだ。女だ。それも外人女だぜ!」
山崎が愕然として足を止める。
「聞こえるかっ。山崎っ。おとなしく出て来るんだ。さもないとこの女をズタズタにするぜっ。女がふた目と見られない顔になってもいいのかっ」
「兄さん……」
久美子が引きつった顔を山崎に向ける。工場の裏手から熊沢組の平田と大沼がゆっくりと現れ、拳銃を手にすると山崎と久美子に向ける。山崎は観念したように首を振ると、両手を挙げるのだった。

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