2.陥穽(1)

突然電話のベルが鳴った。
達彦の帰りを流石に待ちくたびれたしのぶが、ダイニングテーブルでうとうとしだした時である。
(達彦さん……ひょっとして事故にでもあったのかしら)
しのぶは胸騒ぎを覚えながら受話器をとった。
「加藤さんの奥様ですか?」
受話器の向こうから、女の低い声が聞こえてきた。
「そうですが……」
「私、世良香織と申します。早速ですがご主人のことでご相談したいことがありますので、至急駅前のスナック『かおり』までご足労願えますか」
「えっ、今からですか」
しのぶは時計を見た。針は午前2時をまわっている。
「タクシーを呼べば来れますでしょう」
「主人のことといいますと……主人はそちらにお邪魔しているのでしょうか」
「それは、いらしていただければお分かりになりますわ」
香織はいらだたしげにそういうと一方的に電話を切った。
(どうしたのかしら……達彦さんの身に何かあったのかしら)
しのぶは不安にかられながらも身支度を整え、タクシー会社の電話番号を回した。
タクシーは20分ほどで到着した。しのぶは行き先を告げて乗り込む。
(達彦さん……「かおり」にいたのかしら。でもそれならこんなに遅くなるまでどうして連絡できなかったの?)
とにかく「かおり」に行けばわかることだ。深夜のニュータウンは車の数も少なく、まもなくタクシーは駅前に到着した。しのぶは料金を払って「かおり」に向かう。
駅前のスナック「かおり」は1階にコンビニやレンタルビデオ店が入居しているビルの3階にある。3階までが店舗であり、その上は居住区になっている複合ビルである。エレベーターで3階に上がり店の前に立ったしのぶは、営業時間24時までと記されている木製の扉に取り付けられているベルを押した。
扉が開かれ、険しい表情をした女が顔を覗かせた。
「はじめまして……加藤の家内です……世良香織さんですね」
女は挨拶するしのぶに無言で頷いただけで廊下をちらと見回すと、店内に入るよう促した。
「あの……主人は」
「奥の部屋よ。一緒に来て」
香織はカウンターの中に入ると、奥にある扉を開ける。そこは畳の敷かれた部屋があり、休憩室と香織の更衣室を兼ねた部屋になっているようだ。部屋はカーテンで2つに仕切られているが、その奥から何か女の子が泣いているような声が聞こえる。しのぶの胸騒ぎが高まる。香織はつかつかと歩み寄るとカーテンを開けた。
「ああっ」
しのぶは思わず息を呑んだ。
そこには下半身を丸出しにした達彦が小さくなって座り込んでおり、その隣はなんと下着姿の少女が泣きながらうずくまっていたのだ。
「あ、あなた……」
達彦はしのぶに気づいて顔を上げるが、すぐに無言のまま俯いてしまう。
「娘の史織よ。あなたのご主人に乱暴されたの」
「え、ええっ」
しのぶは驚愕して目を瞠る。
「ご主人がひどくお酒を飲んで酔いつぶれてしまったので、ここで休んでいただいていたの。私がちょっと下のコンビニで買い物をしている間に、勉強していた史織を……」
史織が泣き声がわっと高まる。しのぶはあまりの言葉に呆然と立ちすくみ、言葉を失っている。
「あ、あなた……本当なの?」
達彦はじっと黙ったまま顔を伏せている。
「どうなの? 何かいって、お願い」
「……覚えがないんだ」
達彦はようやく口を開く。
「酔っ払って……記憶がないんだ……気がついたらこんな」
「そんな……」
しのぶは絶望に胸を塞がれる思いで香織の方を見る。
「見て」
香織の指差す方向を見たしのぶは、史織の太腿が白っぽい粘液に濡れているのに気づいた。
「当人が記憶がないといっても、それをきちんと調べればわかることよ。史織はひどいショックを受けているわ」
香織はそういうと携帯電話を手に取る。
「今から警察に連絡するわ。奥さんに来ていただいたのは、警察が来るまでの間、ご主人におとなしくしていてもらうためよ」
「ま、待って!」
しのぶは甲高い悲鳴を上げる。
「お願いです、警察だけは……」
「何をいっているのよ」
香織は怒声を上げる。
「史織はまだ12歳なのよ。可愛い娘にこんなことをされて、黙っていられると思っているの」
「わ、わかります。お怒りになるのはごもっともです」
しのぶは香織にすがりつくように哀願する。
「なんでも、どんなことでもお詫びをしますから、警察にだけは言わないで。そんなことをされたら、私達の家庭はメチャメチャになってしまいます」
「他人の家庭はどうなってもいいというのっ」
香織は一段と高く怒りの声を上げる。
「そ、そんなことはありません……で、ですから、どんなお詫びでもさせていただきますっ」
しのぶは土下座せんばかりの勢いで香織に詫び続ける。
警察に連絡されることをどうしてこんなに恐れるのか、しのぶは自分でも自分の気持ちの説明がつかなかった。
達彦を信じたい気持ちはない訳でもなかったが、なぜか本当はやはり達彦が史織を乱暴したのではないかという疑念が晴れず、その可能性が現実化するのを恐れるあまり、香織に対してぶざまにも詫び続けるのだった。
しのぶが額をすりつけんばかりに詫びている間、達彦はまったくの放心状態であった。そのことが一層、しのぶの達彦に対する疑惑をかき立てるのだ。
「……いいわ」
やがて香織がうなずいた。
「えっ?」
あまりにもあっさりと許されたことでしのぶはむしろ拍子抜けし、香織の目を見つめる。
「そこまでして謝るのなら、警察に連絡するのはしばらく見合わせてもいいわ。史織にとっても決して愉快なことじゃないだろうし」
香織は泣きじゃくっている史織をちらりと見る。
「でも、このままですませるわけにはいかないわ。けじめというものが必要だわ」
「わ、わかっていますわ」
しのぶがうなだれて答える。
「2人きりでお話をした方が良さそうね、史織、家へ戻ってらっしゃい」
「あ……」
しのぶは一瞬逡巡した。

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