7.予兆(3)

「あ、もう」
しのぶはお代わりを作ろうとするが、黒田がキープしていたウィスキーはちょうど空になっていた。
「なんや、もうないんかいな」
黒田は顔をしかめた。
「どうする、今晩はこれくらいにしとこか」
「いや、次は僕がいれますよ」
沢木は自分のグラスを空けると、しのぶを見た。
「一番高いのを入れよう」
「まあ、ありがとうございます」
しのぶは思わず声を弾ませる。香織との約束で、ボックス席での接客をする際の給与は一種の歩合制になっている。ボックスについた客がニューボトルを入れると少なからぬ金額がしのぶに渡されることになっているのだ。
「えらいまた豪勢やな、沢木はん」
「ちょっと大口の契約が取れたんでね」
沢木は涼しげな表情で答えたが、香織に声をかけようとするしのぶを手で遮る。
「ただし、彩香ちゃんの本当の名前を教えてくれることが条件だ」
「えっ」
しのぶは笑顔を引きつらせる。
「もちろん下の名前だけでいいよ。僕と黒田さんだけの秘密にするし、店に外の客がいるときにはもちろん本名では呼ばない。いいですね、黒田さん」
沢木が声をかけると黒田は満面に笑みを浮かべてうなずく。
「ああ、もちろんや。わいと沢木さん以外には絶対に内緒にする」
「でも……」
「いいじゃないか、売上に貢献出来ると彩香ちゃんのお給料も上がるんだろう」
沢木にずばりと指摘されて一瞬しのぶはどぎまぎするが、一方かえって気が楽になる。
(どうせ3カ月の間のことなんだし、構わないんじゃないかしら。しのぶなんて名前は珍しくないし、もともと本名を源氏名にしたと思えば……)
「……わかりましたわ」
しのぶは小声で答える。
「おお、OKかいな」
黒田は顔をほころばせる。
「なんていうんだい?」
「しのぶ、ですわ」
沢木の問いにしのぶはなぜか少し胸をドキドキさせながら答えた。
「しのぶ……しのぶちゃんか……」
「ちょっと、声が大きいですよ、黒田さん」
うれしそうにしのぶの名を口にする黒田を、沢木はたしなめる。
「わかっとる。約束どおりこれはわいと沢木はんだけの秘密や、な、しのぶちゃん」
黒田は相変わらず笑みをたたえながら、しのぶの肩に手をかける。
「うん、ええ名前や。確かに彩香なんちゅう名前よりはずっと似合うとるわ」
「まったく、調子いいな」
沢木は苦笑する。
「とにかく約束だ、ボトルを入れるよ。──ママ、ニューボトルをお願い。一番高いやつだ」
「こうなったらわいも入れたる。しのぶちゃんと本当にお近づきになったしるしや」
黒田はそういうと沢木に対抗するように声を張り上げる。
「ママ、わいもや。沢木はんのより高いのを頼むわ」
「何をいってるんですか、黒田さん。僕が一番高いのを頼んだんですよ」
「まあまあ、ありがとうございます。おふたりとも」
香織がにこやかな顔で、新しいボトルを2本と氷と水をトレイにのせてやって来た。
「でも、どうしたんですか。今夜は」
妖艶な仕草で首をかしげ、2人のために新しい水割りを作り始める香織に、沢木は「なに、ちょっといいことがあったんでね」と答える。
しのぶは黒田と沢木の上機嫌な様子を見ながら、さっきから胸の鼓動がなかなかおさまらないのを不思議に感じていた。
結婚以来しのぶは「加藤さんの奥さん」か「健一君、香奈ちゃんのママ」と呼ばれるのが常で、「しのぶ」という自分の名前で呼ばれることなど滅多になかった。
黒田も沢木も夫の達彦に比べると粗野で崩れた感じがあり、これまでのしのぶなら決して好みのタイプではなかったが、なぜか共に酒を飲みながらくつろいでいると、2人ともとても親しみやすく思えてくるのが不思議だった。
何よりも2人が自分に注ぐ賛美に満ちた瞳が心地よい。また「しのぶちゃん」と秘密めいた調子で呼ばれると、背筋がぞくっとするような奇妙な感覚にとらわれるのだ。

「いやですわ、黒田さんったら。そんなことお聞きになるもんじゃないわ」
しのぶはちょっとすねた様子で軽く身をよじり、黒田をにらむ。
「そうですよ、僕の職場でそんな質問をしたらセクハラで訴えられますよ」
「しのぶちゃんのスリーサイズを聞くのがそんなにあかんのかいな」
黒田はおおげさに目を丸くして沢木をにらみ、ぐいと水割りをあおる。その様子がおかしくてしのぶはクスクスと笑い出す。
しのぶが黒田と沢木に本名を教えてから1週間がたっていた。2人は相変わらず毎日のように「かおり」に現れ、しのぶの接客を受けていた。
2人は他の客がいる場所では秘密めいた雰囲気で小声で、今日のようにそうでない時はおおっぴらに「しのぶちゃん」と呼ぶ。それによりしのぶは2人の男とささやかな秘密を共有したような、不思議な刺激を感じるのだった。
今夜も黒田と沢木は「かおり」に現れ、ボックス席に陣取ってしのぶの接客を受けている。たまたま他に客はおらず、黒田も沢木もおおっぴらにしのぶを本名で呼んでいた。しのぶも2人の男に対しすっかり親しみを覚え、リラックスした気分になっているのだ。
「教えてくれたらまたニューボトルを入れるで。もちろん沢木はんもつきあうやろ」
「まいったなあ」
沢木は閉口したように顔をしかめる。
「まあ、この前協力してもらったし、いいでしょう」
沢木がうなずくと、黒田は満面の笑みを浮かべてしのぶに詰め寄る。
「沢木はんもこういってはるんや。2人だけの秘密にするさかい、教えてえな」
「秘密にするなんて……そんなこと当たり前ですわ」
しのぶはさすがに苦笑する。
「なあ、頼むわ。一生のお願いや」
「もう、駄目ですわ。そんなこと聞いちゃ」
2人に付き合って薄い水割りとはいえ、かなり飲んでいるしのぶは、いささか開放的な気持ちになっている。真剣な表情で迫ってくる黒田を見ていると、なんとも言えぬ可愛げな感じがして、つい口元が緩むのだ。
「どうしてもお知りになりたいの?」
「ああ、どうしてもや。知りとうて知りとうて、夜も寝られへんほどや」
「おおげさね、黒田さんったら」
しのぶはクスクス笑う。
「わかりましたわ。お教えします」
しのぶは潤んだ瞳を黒田に向ける。
「……ですわ」
しのぶが囁くような声で答えると、黒田は耳に手を当ててあせって聞き返す。

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