変身(9)

 考え事をしている間にだいぶ時間が経ってしまいました。妻が帰って来るまであと1時間もありません。小説やドラマでは登場人物はこんな時大抵煙草を吸います。しかし、私は気管が弱く煙草を吸わないので、珈琲をいれることにしました。
 妻にどうやって対処するかを、あと1時間弱で決めなければなりません。日常的な動作をすれば人は落ち着くものなのでしょうか。珈琲豆を挽き、珈琲メーカーにいれ、スイッチを入れる。落ち着いたのは良いのですが、ショックが大きかったためか、私の思考は完全にストップしています。
 珈琲がポットの中に溜っていくのをぼんやり見ていると、いきなり玄関のチャイムがなり私は飛び上がるほど驚きました。
「ただいま」
 妻が帰って来ました。予定より早い帰宅に何の心の用意も出来ていなかった私はうろたえました。あわてて玄関に行き、内鍵を外します。
「お、お帰り」
「一人にさせてすみません」
 妻は例の男との温泉旅行でも着ていたグリーンのコートを脱ぎながら、居間に入って来ます。
「あら、珈琲をいれていたの?」
 テーブルの上で珈琲メーカーがポコポコと音を立てているのに気づいた妻が、明るい声で尋ねます。
「私の分もあるかしら?」
「あ、ああ……」
「ありがとう」
 妻はそういうといそいそと珈琲カップやソーサー、ミルクなどを用意します。私はふと気になって妻のノートPCの位置を確認しました。いつも置かれている棚の上にあるのを見て胸をなでおろします。
 私は無意識のうちに珈琲を2人分入れていたことに気づき、自分が腹立たしくなります。私が2人分の珈琲を入れ、妻とお茶の時間を楽しむのは休日の午後の週間になっています。日頃家事をほとんど手伝わない私のアリバイのようなものですが、妻はいつも素直に喜んでくれています。
 ショックで思考が停止していたため、何も考えずにいつもの通り2杯分を入れたのでしょう。予定よりも早く妻が帰って来たこともあって、私は完全に出鼻をくじかれた感じでした。
 私は仕方なく、妻と2人分のカップに珈琲を注ぎます。妻は白い小さな手提げ包みを出してくると、テーブルの上に置きます。
「ケーキを買って来たの。あなたの好きなチーズケーキ。2人分だから少し張り込んじゃった」
 いつもは食欲旺盛な2人の息子の分を外す訳にはいきませんから4人分になります。今日は息子たちの帰りが遅いので内緒で2人で食べましょう、という意味を込めて妻は秘密めいた笑みを浮かべます。
 私は妻がケーキを皿に載せる様子をぼんやりと見つめています。妻の屈託のない笑顔、少し甘えるような笑顔、ビデオの中の恥ずかしげな笑顔、幸せそうな笑顔、そして先程の秘密めいた笑顔、笑顔だけでも妻はさまざまな表情をもっているのだ、などということを考えているのです。
「どうしたの、人の顔をじっと見て。何かついているのかしら」
 妻は笑いながら「どうぞ」とケーキの載った皿を私の前に置きます。
「……今日は随分早かったんだね」
「小夜子の子供が風邪気味らしくて、だいぶ治って来たんだけれどあまり遅くなると心配だからって早めに切り上げたの」
 小夜子さんというのは妻の短大時代の友人です。たしか妻よりも結婚は遅く、まだ下の子は小学校の低学年だったような記憶があります。
 といっても私は、妻の交友関係は詳しくありません。小夜子さんは妻とはもっとも親しい友人といってよく、妻は現在の職場のパートの枠が空いた時、小夜子さんを紹介し、たしか今は課は違うものの同じ本部で働いています。
 従って小夜子さんは妻の学生時代の友人であり現在のパート仲間、そしていわば世話好きな妻は小夜子さんの子育ての先輩ともいえますから、妻の話題にはしょっちゅう登場します。
 小夜子さんは私達が今のマンションに越してくる前と、越してからそれぞれ2度ほど、泊まりに来たこともあります。
 私は妻が買って来たチーズケーキを口に運びます。こんなことをしている場合ではない、ビデオや写真のことを妻に問い詰めなければ、と気持ちは焦ります。しかし、目の前でいつものように楽しげに、今日会った友人たちの消息を語る妻を見ていると、これがビデオの中で前後の口を張り型で責められ、よがり泣いていた女とはとても同じ人間に見えず、言葉が出てこないのです。
 まるで家族が留守中にAVを観ていたところ、いきなり妻が帰って来たので慌てている、そんなばつの悪ささえ感じてしまうのです。
「どうしたの、さっきからぼんやりして」
 妻が小首を傾げます。40歳を過ぎた妻ですが、そんな可愛らしい仕草も不似合いではありません。まして最近の妻の外見の変貌ぶりは著しく、30代前半といっても通るほどです。
 明るい栗色の髪はすでに肩まで伸びています。化粧の仕方も変わったようで、少し派手目のメイクが妻のはっきりした顔立ちを引き立てています。
「いや……」
 私は意味のない返事をします。すると妻は一瞬視線を棚の方へ向けました。それはまるでPCの位置を確認したかのようでした。
 その時私の心に、妻は今日も男と会っていたのではないかという疑念が生まれました。いや、どうして今までそのことに考えが至らなかったのかわかりません。
 PCの位置を確認した妻に私の直感はそれに間違いないと囁きます。しかし、どうにも一歩踏み出す勇気が湧いて来ません。
 ここで妻を問い詰めれば間違いなく修羅場になります。ビデオと写真、証拠は押さえていますので、私が負けることはないでしょうが、今爆発すると息子たちが帰って来るころになっても感情はおさまっていないでしょう。すると息子たちも妻の汚い姿を知ることになります。
(もっと……ちゃんと確認しよう……)
 私は自分にそう必死で言い聞かせます。すべてのビデオを、すべての写真を、すべてのメールのやり取りを確認した訳ではありません。ひょっとして妻が男に何かの弱みを握られ、脅されてあのような行為を強いられていたのかもしれないのです。
 自分をそうやって無理やりに抑えた私でしたが、心の底ではそうではないということはとうに分かっていました。ドライブに出掛ける前の幸せそうな表情、クリスマスイブのとんでもない衣装に身を包んで男の前で見せた媚態、そして激しくイキながら男と交わした熱い接吻、それらはきっかけはどうあれ、妻自身が男との行為を心から楽しんでいたことを示しています。
 結局私には勇気がないのです。妻を失いたくない、今の幸せを壊したくないのです。とっくに失っているかもしれない、壊れているのかもしれないということを認めたくないのです。
妻が何か私に話しかけています。そんなことをぼうっと考えていた私は妻の言葉が聞き取れません。
「……それで……申し訳ないのですが」
 妻がすまなそうな顔付きで私に謝っています。私と別れたい、男と一緒になりたいと頼んでいるのでしょうか。私の心臓がビクンと跳ね上がりました。

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