春日は紀美子の勤める部署の次長のようです。銀行での出世の早さがどういったものなのか良く知りませんので、優秀なのかそうでないのか分かりかねます。電話が保留にさせる間、聞き慣れたクラシックのメロディが流れました。私は必死で気持ちを落ち着けます。
「はい、春日です」
「はじめまして、私、東山紀美子の夫です」
「ああ、奥様にはいつもお世話になっております」
春日はわざとらしく陽気な声を出します。私は春日の話振りがビデオとは違う関西弁のアクセントがあることに気づきます。
(別人か?)
私の胸に不安がよぎります。ビデオの男がなんらかの理由で春日のふりをして、妻がそれに調子を合わせたということも有り得ます。
いずれにしても電話では声質もよく分かりません。私はここはあえて慎重に下手に出ることにしました。
「実は家内のことでご相談したいことが有ります。お忙しいところ申し訳ございませんが、少しお時間をいただけないでしょうか」
「ああ、ああ、もちろん良いですよ。いつがよろしいですか」
春日は声に余裕が有るようです。私の不安が膨らみますが、思い切って切り出します。
「実は今、銀行のすぐ近くまで来ています」
「えっ?」
一瞬春日の声音が変わったようです。
「向かいのビルの地下に、モナコという喫茶店があるのをご存じですか」
「……知ってます」
「そこで待っていますので、ご足労ください」
「今からですか?」
春日の声にためらいが見られます。
「さほどお時間は取らせません。お願いします。それでは」
私はそう言って電話を切ります。
男と春日が別人だった場合、私の行為はやや奇異なものと見られかねませんが、仮にそうであったとしても男は妻の職場の人間であることはほぼ間違いないと感じています。春日から男についての情報を得ることは可能でしょう。
私はモナコという喫茶店に入り、店の奥の方に席を取り、珈琲を注文して春日を待ちます。やがて落ち着かない風情で春日が現れました。黒縁の眼鏡をかけ、額がやや上がった腹の出た中年男、間違いなくビデオの男でした。
私は春日に向かって手を上げます。春日はきょろきょろしながら私の方に近づき、深々と頭を下げました。
「どうも、春日です。奥様にはいつもお世話になっております」
「いえ、お世話になっているのはむしろ家内の方でしょう」
私は込み上げる怒りを必死で抑えてそういいます。春日は皮肉を言われているのを感じたようですが、何も言い返せなくて口をパクパクさせています。
「お座りください」
私が声をかけるとようやく春日は席に着きました。春日が何かしゃべろうとした途端、ウェイトレスが私に珈琲を持って来ました。
「ご注文は」
「あ、こ、珈琲を……」
春日は明らかに平静を失っています。ウェイトレスが去ったところで私は春日に切り出しました。
「春日さん、あなたは私の妻をどうするつもりですか?」
「えっ」
「ビデオと写真はすべて見させていただきました」
私の言葉に春日は見る見る青ざめ、いきなりテーブルに手を着いて頭を下げます。
「す、すんませんっ!」
私は春日の行為にあっけにとられます。珈琲を持って来たウェイトレスが目を丸くして私達を見ています。
「わ、私と奥さんのやったことは、法律的は不貞、不法行為です。それについては償わせていただきます」
「償い?」
私は春日の言葉を聞きとがめます。
「償いとはなんですか」
「ですから……十分な慰謝料を……」
「いきなり金の話ですか。さすがに銀行員は稼ぎが良いのですね」
私は春日を突き放します。
「償いはむろんしてもらいますが、私は妻をどうするつもりなのかを聞いているのです」
「どうするとは……」
「あなたは妻と一緒になりたいのですか?」
「とんでもありません!」
男は慌ててかぶりを振ります。
「そんなつもりは毛頭ありません。紀美子さんは東山さんの妻です」
「すると、あなたは妻を遊びで抱いたのですか?」
私の声が少し大きくなったようで、周りの客数人が怪訝そうな表情をこちらに向けます。
「どんなつもりであったにせよ。責任は取ってもらいます。私はもう妻とは離婚するつもりです」
「離婚……」
春日は目を丸くします。
「それはいけません。離婚はいけません」
「なぜですか? あんなことをした妻とはもう一緒にはやっていけない。妻もビデオの中であなたの妻としてやっていきたいと言っていたではないですか」
「あれは違うんです」
「どこが違うんだ」
さすがに私は怒りをこらえ切れず、言葉が荒くなります。
「それにあんたが始めに言った、法律的には不貞とはどういう意味だ。法律的には不法だが心情的には正しい、純粋な愛だとでもいいたいのか」
「東山さん、勘弁してください。この店は銀行の人間も出入りします」
店中の視線が私達に集まっています。私はさすがに少し興奮が冷め、席に座り直します。
「今日、昼休みにかけて外出の時間をとって、東山さんのお宅にお邪魔します。その時にきちんとお話させてください」
「わかった……」
私もここでこれ以上の話は無理と見て承諾しました。とにかく少なくとも春日がはっきりと妻との不貞行為を認めたのですし、銀行員という社会的立場上逃げ隠れはしないでしょう。私はいったん鉾を収め、家に帰って春日を待つことにしました。
春日に対する先制攻撃はなんとか成し遂げたのですが、もう一人かたをつけなければならない相手がいます。そう、妻の紀美子です。
家に帰った私は、留守電が入っていることに気づきました。確認すると妻からです。お話したいことがあるのですぐに携帯に連絡してほしいとのことでした。時間を確認すると、ちょうど私が春日と別れた10分ほど後です。
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