蜃気楼 第2話

「渡辺さん、私、転校しなければいけなくなったの」
「転校?」
 思いがけない香澄の言葉に私は驚きました。
「いつ?」
「父の転勤で2年からは新しい学校に……」
 私と香澄の通う学校は公立ですが地域では一応名の通った進学校で、学区外から越境通学をしてくるものもあるほどです。したがってよほどのことがない限り転校するものはありません。
「転勤って、どこへ?」
「I県に……」
 香澄が口にしたのは北陸のある県でした。私たちが通う横浜の学校からは相当の距離があります。
「そうか……」
 私は間の抜けた返事をします。
「クラブ、続けられないね」
「うん……」
 香澄はまた頷きますが、なぜか私とは目を合わせません。
「みんなに言う前に、渡辺さんに伝えたかったの」
「そうか……」
 今度は私が頷きました。
「クラブは3月いっぱい続けるよ。来週からまた練習だね」
 香澄は笑顔を見せ、「それじゃ」と言って帰っていきました。私は香澄を見送ると、私が来たときに香澄がそうしていたようにぼんやりとグラウンドを眺めました。
(香澄がいなくなる……)
 私は突然胸が締め付けられるような思いがしました。
 私が友人と遊ぶ時間も惜しんでフルートの練習に打ち込んだのは、当初は楽器を一つ自分のものにしたかったからでしたが、次第に香澄に認められたいという思いからそうしていたのだということがわかりました。香澄がいつしか私に寄り添ってくるような演奏をするようになったとき、私の心の中になんともいえぬ幸福感が生まれていたのです。
 ほとんど言葉を交わしませんでしたが、毎日の練習で私と香澄は確かに気持ちを伝え合っていました。ここはもっと早く、もっと強く、もっと優しく、歌うように……私は香澄のフルートの音色の中に香澄の声を聞いていたのです。私自身も自分の思いを演奏に込めていました。香澄と一緒にいられて嬉しい、もっと一緒にいたい、ずっと一緒にいたい……。
 私は非常階段を一段抜きで駆け下りました。校門を出たところで、ずっと前のほうで一人で歩いている香澄の姿が見えました。
「村岡さん」
 私が呼ぶと、香澄が驚いたような顔をして振り返りました。私は香澄に向かって駆け寄ります。
「忘れてた……僕からも話があったんだ」
 香澄は私の顔を見ながら首を傾げます。
「時間はある?」
 香澄はこっくりと頷きました。とっさのことなので私はどこへ行こうかまったく考えていません。そんな私に香澄が声をかけます。
「港の見える丘公園に行かない?」
「そう……そうだね」
 私は頷くと、駅に向かって歩き出します。香澄は特に小柄というわけではありませんが、180センチを超える私とはかなり身長差があります。大きな歩幅で歩く私に香澄は懸命に着いてきました。

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