56.潜入(3)

 突然久美子は、助手席の悦子がじっと黙ったままバックミラーに映る久美子の方に時折視線を向けていることに気づき、慌てて下を向く。
「久美子さん」
「な、何?」
久美子は思わず、悪戯を咎められた子供のような声を出す。
「この前は助けてくれてありがとう。久美子さんがいなければ、私たち、どうなっていたか」
「ああ、そのこと」
久美子は安堵して微笑む。
「たいしたことじゃないわ。気にしないで」
「いえ、たいしたものだわ。私も久美子さんみたいに強くなれれば……」
悦子はそこまで言うと口を噤む。
(この悦子って娘、そんなに悪い子には見えないけれど、どうしてあんな連中の仲間になって入るのかしら)
久美子はそんなことを考えながら悦子の方をちらちらと見るが、無表情を保っている悦子の様子からは特段のことは窺えない。
車はやがて幹線を離れ、入り組んだ細い道を走り始める。
(抜け道を通っているのか)
久美子は必死で道を覚えようとするが、車は何度も道を曲がり、時には来た道を後戻りするような走り方を見せ、やがて久美子はすっかり位置感覚を失ってしまう。
久美子たちを乗せた車はやがて、うっそうとした林に覆われた大きな屋敷前に到着する。
あたりには住宅は殆ど見当たらないほど辺鄙な場所である。屋敷の周囲には高い樹が植えられており、少し離れた場所から見るとそこに屋敷があることに気づかない。
(ここに遠山の奥様や京子さんが……)
三階建ての屋敷を見上げる久美子は、その大きさに圧倒されるとともに、誘拐された美女たちが日々この場所で屈辱にあえいでいるのかと、ふと背筋に寒気が走るような恐怖を感じる。
(こんな場所では仮に誘拐者の目を盗んで屋敷を抜け出すことができたとしても、助けを求めることもできないわ。いったいここはどこなの?)
久美子は車の中で必死で道筋を確認していたのだが、途中からすっかり暗くなり、さらに抜け道を使われたったこともあり、正確な場所が掴めない。
その時、背後で一台のタクシーが停車し、義子とマリが降りて来る。
(そうだ)
久美子はとっさにタクシーのナンバープレートを確認し、番号を暗記する。これで兄に電話した時に、タクシーのナンバーを伝えればそこから運転手にたどり着き、歌舞伎町で乗せた若い女二人をどこまで乗せたかがわかるはずだ。
「お待たせ、それじゃ中へ入ろうか。お客さんたちがお待ちかねや」
義子が声をかけ、久美子、美紀、絹代を屋敷内に招き入れる。
(いよいよだわ)
久美子は武者震いするような思いで屋敷に足を踏み入れる。後はなんとか屋敷内からでも兄に電話をするだけだ。遅くともあと半日以内に山崎がこの屋敷に駆けつけ、静子夫人達を救うことが出来るだろう。
これでようやく名探偵山崎の名誉を回復することが出来ると思うと、久美子の胸は自然に高ぶるのだった。

「少し待っていてね。お相手を呼んで来るから」
久美子たち三人を応接間に通した義子とマリはそう言って部屋を出る。久美子たち三人に熱い紅茶が出される。
久美子は紅茶を前にして一瞬ためらう。久美子の想像どおりだとすればこの屋敷こそ誘拐犯一味の巣窟である。
(もし私の正体が見破られていたら、この紅茶に痺れ薬か何かが入っているかも)
静子夫人の捜索にあたっていた京子があっさりと誘拐犯の手に落ち、そして京子の妹である美津子、村瀬小夜子と文夫、折原珠江と美沙江といった風に次々と拉致・誘拐が鮮やかに成功してきた。相手の懐に飛び込むためには大胆さが必要だが、一方で久美子は警戒してもし過ぎることはないと考えている。
(この紅茶を飲むべきか――それとも)
警戒して飲まなければかえって疑われるかもしれない。やはり飲んだ方が良いのか。
(いや、馬鹿な。何を考えているの。しっかりしなさい、久美子)
悪い予想があたって痺れ薬でも入っていたらその時点で作戦は失敗なのだ。リスクを犯す訳にはいかない。
それならどうすべきか――。
「久美子さん、そのカップを貸して)
美紀が久美子に声をかける。
「え、で、でも……」
「一服盛られていたとしても私なら、どうせ囮になるつもりなのだから大丈夫よ。久美子さんだけには頭をしっかりしておいてもらわないと」
美紀はそう笑うと久美子の前の紅茶カップを手に取り、2、3口すする。
「熱くて急には飲めないわ」
そう言って笑うと、美紀はカップをソーサーの上に置く。
「私にも飲ませてください」
今度は絹代がカップを取り上げ、ぐっと飲む。絹代がカップを置いた時、紅茶は半分近くまで減っていた。
「すみません、ありがとうございます」
「いいのよ、久美子さん。私達は言わば一蓮托生よ」
美紀そう言って微笑む。
「ところで、自分の紅茶に口をつけないのはおかしいわね」
美紀は今度は自分の前に置かれた紅茶のカップを手に取る。絹代も美紀に倣うように紅茶を飲む。
「なかなか良い葉を使っているわ。特におかしな臭いはしなかったから、薬が入っていたようには思えないいけど」
美紀がそうつぶやいた時、マリと義子、そして悦子が男二人を連れて入って来る。
男二人は上等のスーツを身につけているが、全体にどことなく崩れた雰囲気が漂っている。二人の男は美紀と絹代の顔を見るなり相好を崩して口を開く。
「こりゃあ写真で見るよりはるかに美人だ」
絹代は恐怖と緊張で身体を硬化させているが、美紀はそんな絹代を叱咤するような気持ちで男たちに答える。
「私も、ハンサムな紳士にお目にかかれて嬉しいわ」
「そう言ってもらえると光栄だね」
男のうちの一人――川田はソファに腰掛け、ニヤリと笑う。
「すぐにベッドへ、と言いたいところだがこういったことはお互いの気持ちが盛り上がるのが大事だ。この屋敷にはホームバーがあるんだ。少しそこで飲まないか?」
「良いわね」
美紀は余裕たっぷりに微笑む。絹代は依然として表情は堅いが、懸命に笑みを浮かべる。
もう一人の男――吉沢も無言で笑い、腰を上げる。
すぐにベッドインとならないということは美紀や絹代にとっては朗報である。酒を飲みながら時間を稼げば稼ぐほど、山崎たちの救出が間に合う可能性がそれだけ大きくなるのだ。

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