77.地下室の三人(2)

「ああ」
そう言えば自分も昨夜から一度もトイレに行っていない。そろそろ切迫した尿意が下腹部を襲い始めた頃である。
「我慢出来なければ、そこへ」
久美子は檻の中に置かれた洗面器を指さす。昨夜、銀子が「これが奥様たちの便器よ。三人共用だから喧嘩しないで、仲良く使うのよ」と嘲笑しながら檻の中へほうり込んだものである。
「い、いやですわ。こんなところで……」
絹代は狼狽して首を振る。
「でも……」
「昨日の女の人たちがいずれ様子を見に来るでしょうから、その時にお願いしてお手洗いに行かせていただきます」
「そんな、いつになるか分かりませんわよ」
腰部を震わせながら尿意をこらえている絹代を、美紀が気遣う。
「だ、大丈夫です」
「お身体に触りますわ。私たちのことは気にしないで」
「それは、美紀様は昨夜……」
苛立った絹代がそう言ってはっと口を閉じる。葉桜団の不良少女たちから「土手焼き」という凄惨な私刑にあって思わず失禁した美紀は、羞恥に染まった顔をうつむける。
「す、すみません」
「いいんですわ、絹代さん。醜いものを晒したくない気持ちは分かります」
美紀はほほ笑んで頷く。
それから十分ばかりの時が過ぎ、絹代の我慢がほぼ限界に達しようとした時、地下室の扉が開き、女たちの声が聞こえて来る。
「奥様たち、迎えに参りましたわ」
「今日はたっぷりお仕置きを受けてもらいますわよ」
そんなことを言い合い、笑いながら入って来たのは葉桜団の銀子、義子、そして千原家の女中で今は葉桜団のメンバーになっている友子と直江の4人である。
「一晩たって覚悟は出来たかい。久美子」
銀子が檻の中の久美子に憎々しげな目を向けて言い放つ。
「まずは私たちをサツへ売ろうとした償いをしてもらうよ。そこの奥様二人と一緒にね」
「待って。あなたたちを罠にかけようとしたのは私よ。美紀さんと絹代さんは関係ないわ」
久美子はきっと銀子たちを睨みつける。
「だから、お仕置きをするなら私だけにして頂戴」
「なかなか良い覚悟だよ。さすがは山崎の妹だね」
銀子はわざと感心したような声を出す。
「でも、残念ながらそういう訳にはいかないよ。ここでは女奴隷は常に連帯責任と決まっているんだ」
銀子はそう言うと、友子と直江に「順に外へ出しな」と命じる。二人は頷くと檻の扉を開け、「さ、出て来るんや」と声をかける。
久美子は檻の中に半身を入れている友子の腕を掴むと、いきなりぐいと捻り上げる。
「い、痛たたっ」
けたたましい悲鳴が地下室に響き、友子は身体を半回転させて檻の中に倒れ込む。
「あっ、友子っ!」
直江が友子を助けようと久美子につかみかかる。久美子はすっと身を屈めると直江の鳩尾に肘打ちを放つ。
「ぐうっ!」
直江は蛙が潰れるのような声を出し、床の上に崩れ落ちる。
歌舞伎町で愚連隊の男二人を叩きのめした久美子の姿を見ていたのは悦子だけである。義子は初めて見る久美子の柔道技の鮮やかさに、呆気に取られたような表情を見せている。
「なかなかやるじゃないか。柔道を使うって聞いていたけれど、この目で見るのは初めてだよ。ますます京子顔負けだね」
一方の銀子は不気味なまでに余裕に満ちた顔を久美子に向けている。
「要求を聞いてくれるのなら、これ以上暴れるつもりはないわ。お仕置きは私だけにすること、それと、美紀さんと絹代さんをすぐにお手洗いに連れていくこと」
「調子に乗りおって……」
義子が怒声を上げようとすると、銀子は「やめな」と制止する。
「聞いてくれないのなら……」
久美子は友子の腕をぐいと捻り上げる。再び友子のけたたましい悲鳴が響く。
「い、痛いっ! 腕が、腕が折れちゃうよっ!」
「どうするの、銀子さん。私は本気よ。仲間の腕が折れても知らないわよ」
「新入りとは言え、怪我をさせられるのを黙って見ている訳にはいかないね。葉桜団は仲間を大切にする主義でね」
「それじゃあ、言うことを聞いてくれるのね」
銀子はそれには答えず、開かれた地下室の扉に向かって「マリ、連れてきな」と声を上げる。
「待ちくたびれたよ。さ、入りな」
葉桜団のマリが一人の裸女を引っ張り込む。女は犬の首輪をかけられ髪を剃り上げられており、身体のあちこちには鞭や、煙草を押し付けられたと思われる跡がある。
マリはふらふらとよろめく女の顔をぐいと持ち上げる。
「悦子さん……」
腫れ上がったその顔を見た久美子は思わず息を呑み、美紀と絹代の喉から同時に悲鳴が迸り出る。
「な、なんてことをするのっ。悦子さんはあなたたちの昔からの仲間でしょう」
「もう仲間なんかじゃないね。裏切りものは許さないのが葉桜団の掟さ。悦子は前にも静子夫人を逃がそうとしたことがあったが、それでも一度だけはと見逃したんだ。二度目は許せないよ」
葉桜団の副首領である朱美が久美子に向かってそう言い放つ。
「友子と直江を放しな。さもないと悦子の手を順に折るよ」
マリと義子が悦子に取り付き、二人掛かりで腕をねじ上げる。
「ひ、ひいっ!」
白目を剥いて絶叫する悦子の姿を見た久美子は「や、やめてっ!」と悲鳴を上げる。
「友子と直江を放すんだ」
「わかったわ」
久美子は掴んでいた友子の腕を放す。友子は腕を押さえながら起き上がると、床に倒れたままの直江を助け起こし、檻の中から転がり出る。
「順に檻から出て来るんだ」
銀子の命令に、久美子、美紀、そして絹代の順に檻から出る。銀子はつかつかと久美子に近寄ると、柔らかな頬にいきなり強烈な平手打ちを食らわせる。
「あっ!」
不意を打たれた久美子は思わずバランスを崩しそうになるが、どうにか持ちこたえる。
「私たちを甘く見るとただじゃすまないよ。悦子のようになりたくなければ従順にするんだ」
久美子は口惜しげに銀子を睨むが、やがて目を伏せ「わ、わかったわ」と頷く。
友子と直江を虜にしたまま檻の中に立てこもって、どれだけ時が稼げるのか久美子にさほど成算があった訳ではない。しかしながら今日の午前中にほぼ確実に期待できる救出の時まで、この屋敷の人間を出来るだけ自分のところにひきつけ、捕らえられた小夜子や美沙江たちが嬲りものになるのを少しでも防ぎたかったのである。

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