このまま史織を帰して良いのだろうか。
確かに現在の状況を見ると達彦が史織に対して何かをしたと考えるのが妥当かもしれないが、確たる証拠がある訳ではないのだ。
しかしそれを言い出すと警察を呼ぶ呼ばないの話を蒸し返すことになる。しのぶは最近読んだ新聞で痴漢の冤罪のため職を失った人の話を思い出した。このような破廉恥事件は疑いをもたれるだけでも社会人としては致命的なのだ。しかも対象は12歳の少女である。
「ご主人にもいったん帰っていただいていいかしら」
香織の言葉に達彦はたちまちほっと救われたような表情になった。
いままで針の筵に座っているような心持ちだったのだろう。達彦は伺いを立てるようにおずおずとしのぶを見る。
そんな達彦にしのぶはかすかな不快感を覚えた。自分が招いた事態だというのに、その後始末を妻に押し付けて逃げようとしている。
(情けないわ……)
しのぶは内心ため息をつく。しかしながら史織に乱暴を働いたかもしれない達彦とこれ以上同席したくない、話し合いはしのぶと2人で行いたいという香織の申し出は納得できるものであり、受けざるを得ないかと判断した。
(一緒にいられたらかえってこじれるかもしれないし……)
警察へ届けないといっている以上、要求はまず間違いなく金であろう。こういう場合は女同士の方がかえって本音の話ができて良い。
(いくらくらいかしら……住宅ローンもあるし、子供にもお金がかかる時期だというのに……でも、それで全部解決できるのなら……とにかく達彦さんは当分夜遊び禁止ね)
最悪の事態は免れそうという安心感で、しのぶの思考はとりとめもなく働き出す。
「──どうなの? しのぶさん」
「わ、わかりました」
香織の声にはっと我に返ったしのぶは頷いた。
「しのぶ……」
「あなた、先に帰っておいて。後で話し合いましょう」
「わかった……」
達彦はそう答えると背をかがめるようにして帰って行った。足元がややおぼつかなくふらふらしているが、しのぶにも手助けをする心の余裕はない。
「……」
香織は達彦が立ち去ったことを確認してから、史織をビルのすぐ上の階にある家に帰した。
(──それにしても、どうして子供をこんな遅い時間まで店にいさせたのかしら)
それそもそもが間違いの元なのだ。しのぶは達彦が史織に本当に悪戯をしたかどうかについてはいまだ半信半疑だったが、仮にそういうことがあったとしても、一概に当方ばかりが責められる理由はないのではないかと考えていた。
そういった点ではしのぶも十分利己的な思考の持ち主であり、またこれから起こる事態について楽観視していたといえよう。
「それでははじめましょうか」
香織はしのぶに椅子を勧めると、自分も改めて座り直した。
「困ったことになったわ……ご主人は何も覚えていないというし、史織はただ泣くばかり。怪我はしていないようなのは幸いだったけど、実際何があったのかを当事者から明らかにするのはとても難しそうだわ」
しのぶは香織の口調が落ち着いているのを感じてひとまずはほっと安堵した。娘に悪戯されたとヒステリックに非難されるのではないかとある程度覚悟していたのである。これならお互いに冷静な話し合いが出来そうだ。
「もしご主人が酔っ払ってなにがなんだかわからず、たとえば他のだれかと勘違いしてああいったことをしたとしたら、それはもちろん誉められたことではないけども、ある程度仕方がないことだと思うの。不幸な事故だったということで史織には言い聞かせるわ」
しのぶはますます安堵の感が深まり、思わず香織の言葉に頷く。
「──だけど、ご主人がわざとああいうことをやったとすれば見過ごす訳には行かないわ。12歳の子供だと分かってあんなことをしたとしたらそれは危険な異常性欲者ということになるからね、それはわかるわね」
しのぶは香織の口調が急に冷ややかな調子になったので一気に不安が高まった。
「あの……」
「だからそうでないことを確認するために、奥様に色々と質問をしたいの。ご主人の性癖にかかわることだからかなり立ち入ったこともお伺いするけど、いいわね?」
「あ……はい」
香織の有無を言わせぬ口調にしのぶは思わず頷く。
達彦にそういった異常性があるはずはない。香織が言うように酔っ払ってきっと誰かと──私とと言いたいところだけれど、この際香織と間違えたということでも目をつぶってやろう──勘違いしたに違いないのだ。
「まず初めの質問よ。あなたとご主人が初めて出会ったのはいつなの」
「え?」
しのぶははっと香織の冷たい目を見つめる。ある程度プライベートな部分をほじくり返されるのではないかと覚悟していたが、それでも表情が硬くなるのを押さえることが出来ない。
「ち……中学1年です」
「中1ですって」
香織はわざとらしく目を剥いた。
「その頃ご主人はいくつだったの」
「大学……1年でした」
「ちょっと待って……すると、6歳上だったってこと?I
しのぶはコクリと頷く。
「中1なんてまだほんの子供じゃない。あなた、そんな小さなころから男をくわえ込んでいたの?」
香織はさも呆れたという表情をする。
「そんな……」
しのぶは香織の露骨で侮蔑的な表現に絶句する。
「た、達彦さんと私はそんなおつきあいではありませんでしたわ」
「ああ、それでわかったわ。あなたのご主人はいわゆるロリコンなのよ。大学生の癖に中1の子供に興味をもつなんて異常だわ。それでうちの史織に手を出そうとしたのね」
「う、うちの主人は、うちの主人はそんな人じゃありません」
決めつける香織にしのぶは顔を赤くして抗議する。
「ふん、どうかしら」
香織は口元に余裕の笑みを浮かべる。香織の表情が先程までの穏やかなものとは一転して、獲物をねらう獣のような冷酷なものになっているのにしのぶは慄然とする。
「まあいいわ。その点についてゆっくりお話し合いをしようじゃないの」
香織は席を立ってカウンターの中に入り、珈琲を入れる。
「あなたも飲む?」
「……いえ、遠慮しておきます」
「眠れなくなるのを心配しているのなら、それは余計なことよ。むしろ頭をはっきりさせておいた方がいいんじゃないの?」
「……それじゃあ、いただきますわ」
香織がうなずく。しのぶは注がれた珈琲にミルクだけを入れてしきりにスプーンでかきまぜる。しばし「かおり」の店内は静かになる。
(落ち着かなくちゃ……落ち着かなくちゃ)
しのぶは頭の中で呪文を唱えるように繰り返し、ぐっと珈琲を飲む。
「あなたには娘さんがいるわね。香奈ちゃんといったかしら」
いきなり別の方向から切り込んで来た香織に、しのぶはとまどう。
「娘のことを話題にするのは……やめてください」
コメント