5.予兆(1)

「はっ?」
しのぶは驚いて香織を見る。
「もちろんただ働きなんて理不尽なことはさせないわ。きちんとこういった仕事の相場通りのお給料はお支払いします」
「……」
しのぶは香織の意図をはかりかねて、戸惑いの表情を浮かべる。
「お宅のご主人を出入り禁止にしただけじゃあ、うちにとって経済的には損こそすれ、得になることはなにもないわ。それに今度のこともお宅の都合のいいようなデマを飛ばされないとも限らない。そうなるとうちの商売は信用がた落ちだわ」
「そ、そんなことしませんわ」
「私は他人の言葉はあまり信用しないことにしているの」
香織は珈琲のお代りを注ぐと、しのぶに勧めた。しのぶは少し迷ったが、ひどく喉が渇いたこともあり、いただきますと答える。
「奥さんがここで働くなら、この店のことを悪く言えないはずだわ。それに、ご主人がこの店に来なくなる理由も納得出来るものになる。男なら誰だって女房がいる店で飲みたくなんかないでしょう?」
香織の言うことは強引だが、しのぶにはなんとなく説得力もある気になって来る。なんといっても経済的にもなんら痛手がないばかりか、しのぶが働くことによる給料という臨時収入が得られ、かつ達彦の飲み代も節約出来るのだ。
(……水商売のバイトをするなんてあまりみっとも良いことではないけれど、この際背に腹は換えられないわ。それに、ほんの3カ月ばかりのことだもの)
「わかりました、それでお願いいたします」
しのぶが頭を下げると、香織は「契約成立ね」とにっこり笑みを浮かべた。
しのぶの頭の中からは、なぜか香織がいましがた見せた猛獣を思わせる冷酷な表情はすっかり消え落ちていた。

事件があった夜から1日おいた2日後、スナック「かおり」でのしのぶの勤務が始まった。しのぶは開店の1時間前に出勤すると香織の指示に従って入念に化粧をし、服装を整える。
しのぶは顔見知りの人間が来店してもすぐにはわからないように、香織が用意した栗色のウィッグを付けて濃い目の化粧を施した。これも香織が用意した背中が広く開いた鮮やかなワイン色のドレスを身につけて姿見の前に立ったしのぶは、自分の変身ぶりに少なからず驚いた。
「まあ、しのぶさん、まるで20代に見えるわね。ご主人が見てもあなただとわからないんじゃない」
「そんな……」
少し赤くなって香織の言葉を否定するしのぶだったが、内心はまんざらでもなかった。
(私もまだまだ捨てたもんじゃあないわ)
「私と体型があまり変わらないから、洋服は私が使っていたのを貸してあげるわ」
「ありがとうございます」
しのぶは素直に礼をいう。
「それと、お店ではしのぶと呼ぶのはまずいわね。そうね……彩香という名前にしましょう。私はあなたを彩香ちゃんと呼ぶから、呼ばれてもきょとんとしたりしないでね。年を聞かれてもあなたはノーコメントよ。とりあえずぎりぎり20代、っていうことにしておくわ」
「はい」
しのぶはうなずいた。正直いって香織が、しのぶの身元が露見しないようこれだけ配慮してくれるとは思っていなかったのでほっとしたのである。きちんとしたサラリーマンの妻が水商売のバイトをするなど、あまり世間体が良いものではない。客の前で本名も明かされ、晒しもののように扱われるのではないかと、しのぶは内心ビクビクしていたのだ。
やがて「かおり」の開店時刻となった。
常連らしい客が店に入るや否や、びっくりしたような表情で自分を見るのがしのぶには不思議なほど快感だった。客の相手はもっぱら香織が行い、しのぶは簡単なつまみを用意したり、水割りを作ったりすればよかった。たまに酔った客に話しかけられても、にこにこと笑っていれば大丈夫という気楽さだった。
しのぶが店に入ってからは客が徐々に増え、香織も満足げだった。そして「かおり」での最初の1週間があっという間に過ぎ、しのぶは香織から初めての給料を渡された。
「こんなに……」
袋の中には意外なほど多くのお金が入っており、しのぶは驚いた。
「最初だから少し色を付けておいたわ。来週からはこんな風にはいかないわよ」
「すみません、どうも有り難うございます」
しのぶの口から思わず感謝の言葉が出た。
もともと達彦の犯した不始末のお詫びとして、しのぶは香織の店に勤めだしたはずなのに、香織にはある程度覚悟していた意地悪もされなかったばかりか、結果的には割の良い働き口の世話をしたもらったことになる。かえって申し訳ないような気分になると共に、香織に対する好感さえ生まれてくるのだった。
「それと、これからは少しお客様の御相手もしていただけるかしら、そろそろ、彩香ちゃんを目当てに通ってくれる人も出ているのよ。特に黒田さんと沢木さんは以前からのお得意さんなので、よろしくお願いするわ」
「わかりました」
しのぶは素直にうなずいた。
お客の相手をするということはボックス席で話をしながら一緒に酒を飲むということである。香織の話では「かおり」には龍という男のバーテンがいてカウンターを担当していたため、ママの香織がボックス席の得意客の応対をしても問題はなかったのだが、龍が少し前から体調を崩しているためそれが出来ず困っていたとのことである。
「龍には悪いけど、私と無愛想な彼が相手をするよりは、彩香ちゃんと2人で組む方がお客様へのサービスになるわ」
香織が艶っぽい笑いを浮かべた。
しのぶは1歳年下の香織から「彩香ちゃん」と呼ばれることに最初は抵抗があったが、香織は仕事の上での雇い主であり、「彩香」というのは職場におけるいわば「記号」に過ぎないと考えて今では納得していた。しのぶは香織がてきぱきとくだす指示に従い、身体を動かすことが自然に身につき、香織に褒められ、客から喜ばれることが次第に快感になってきたのである。
しのぶは大学を卒業してすぐに達彦と結婚して家庭に入ったため、まともに仕事をした経験はない。どんなに家事をきちんとこなしても、達彦からも子供からも特に感謝されるということもなく、しのぶもそれを特に疑問に感じたことはなかった。それだけにしのぶにとって、自分が働くことで少なからぬ収入を得て、しかも他人から感謝されるということは新鮮な喜びだったのである。
一方でしのぶと達彦の仲は例の事件以来やや微妙なものに変化していた。
しのぶはあえてあの日の真相を達彦に対して追求しようとはせず、達彦の方も触れようとはしなかった。しのぶはただ香織が出した条件、達彦を3カ月の間「かおり」から出入り禁止とし、その間しのぶが「かおり」で働くということを伝えただけであった。
香織との和解の条件が出入り禁止だけですむことを聞いた達彦は明らかに安堵の表情を浮かべたが、「かおり」でしのぶが働くことについてはやや釈然としない様子だった。しかし自分の不始末を妻に押し付けた後ろめたさからか、それ以上この件でしのぶに対して何かいうことはなかった。
しのぶは香織が出した条件以外に達彦に対して、これからはもう香奈と一緒に風呂に入らないことという項目を付け加えることを忘れなかった。達彦は憮然とした表情を浮かべたが、渋々うなずいた。
しのぶは「かおり」で働きだしてから、それまでの主婦特有の野暮ったさが取れ、明らかに美しくなっていった。もともと素材は良かったのだが、香織の指導によって化粧法も髪形も変わり、行きつけの美容院も紹介され、その美しさが洗練されていったのである。達彦はそんなしのぶの変貌に驚きの表情を向けるばかりだった。

Follow me!

コメント

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました