週に1、2回の「かおり」通いも禁止されて所在なげにしていた達彦としのぶの間に小さなトラブルが生じたのは、しのぶが「かおり」に勤め出してから1週間がたとうとしていた頃である。
「駄目……」
しのぶが寝室の電気を消し、おやすみの挨拶をしてからいきなり達彦が挑んできたので思わず身体をよじらせて抵抗した。
「しのぶ……」
「嫌っ、嫌よ、あなた」
達彦はいつもそうするようにしのぶの身体を抱きしめ、キスしようとする。
「やめてっ」
しのぶは激しく抗い、のしかかってくる達彦を両腕を突っ張って押しのけた。達彦はさすがに白けた顔をしてしのぶ見る。
「どうして……」
「だって、あんなことがあったんだもの……しばらくは駄目よ」
しのぶは達彦から眼を背けるようにしていった。
「あんなことって……僕は何もしていないよ」
「何もしていないって………」
しのぶは思わず険しい表情で達彦を見る。史織の透き通るように白い太腿の上のおぞましい白濁……それをはっきりしのぶも見たのだ。
「信用していないのか」
「そうじゃないけど……しばらくは自重して欲しいわ」
そういってしのぶは達彦に背を向けた。
「『かおり』と同じく、私にも3カ月は出入り禁止よ」
暗闇の中で達彦が軽く舌打ちする音が聞こえた。
(ちょっと言い過ぎたかしら……)
しのぶはベッドの中で今の達彦とのやり取りを反芻して軽い後悔の念にとらわれたが、初めて経験する仕事の疲れがたまっていたのか、いつしか深い眠りに落ちていった。
しのぶが接客まで担当するようになるとますます「かおり」は繁盛の度合いを増した。世間ずれしていない初々しさと人妻らしい色香を合わせ持ったしのぶは人気を呼び、しのぶ目当てで通い出す客があとをたたなかった。
その中でも特に熱心だったのが常連の黒田と沢木である。
黒田は50がらみの髪が薄いでっぷりとした男で、駅前ほか2箇所のコンビニエンスストアのオーナー店主である。黒田の店は立地が良い上、新興住宅地であるため競争があまり激しくないことから非常に繁盛していた。黒田は夜の間、店をパートの店主とアルバイトに任せ、毎日のように「かおり」に通っていた。
沢木は40近くになるのにいまだ独身のサラリーマンである。黒田と対称的に痩せ型の沢木は、証券会社に勤めている縁なしの眼鏡をかけた、少し崩れた感じの気障な男であり、会話からしのぶと同じ町内に住んでいることが知れたが、しのぶの方は沢木を見かけたことがなかった。
沢木と黒田はうまがあうようで、店の奥のボックス席を占領して長居することが常だった。しのぶも沢木と黒田がそろったところでしばらく相手をするが、酒が進むにつれて2人の男の眼が露骨にしのぶの胸元や尻のあたりに注がれ、会話に卑猥な冗談が混じり出すと頬を赤らめてそそくさと引き上げるのだった。
「彩香ちゃんは結婚してるんだよね」
ビール2本を空けた後、水割りに切り替えた沢木はしのぶがお代わりを作る手元をじっと眺めながら話しかけた。
「……あ、いえ」
戸惑いの表情を浮かべてしのぶは答える。
「ごまかしたって駄目だよ、初めての日に結婚指輪をしていたじゃない」
「ほう、沢木はん、さすがよう見てまんなあ」
「所帯持ちの黒田さんとは違いますよ」
「かおり」に出勤した初日、しのぶはうっかり結婚指輪をしたまま店に出てしまったのだ。それを沢木は目ざとく見つけ、覚えていたらしい。
「途中で外すのはおかしいから、何もいわなかったけれど……」
その日、店を閉めてからしのぶは香織に注意された。
「お客様はお店に、日常と離れた憩いを求めて来ているんだから、生活を感じさせるものは身につけちゃ駄目よ。たとえあなたが家庭の主婦であることをお客様みんなが知っていたとしても、お店にいる間はそれを忘れさせる演出をしなくちゃ」
「わかりました、以後気をつけますわ」
香織の言うことはプロとして当然だということがしのぶにも良く理解できた。ああいった事件が経緯でしのぶは香織の店で働かざるを得なくなったこともあり、また、あの夜の香織の恐ろしささえ感じさせる態度から、当初しのぶは香織に対して少なからず嫌悪感をもっていた。しかし初日の香織の言葉からはなかなか真剣な職業人としての姿勢がうかがわれ、いささか見直すような気になったのだ。
「そうか……人妻か」
黒田は水割りをぐいと飲み干すと、にやけた笑いをしのぶに向ける。
「それにしてもこんな別嬪さんを奥さんにするなんて、幸せな男もいたもんや。あやかりたいわ」
「いいんですか、黒田さん。そんなこといって」
「嫁はんか? あんなもんわしは全然気にしてへんで。へっ」
黒田は沢木に向かってぎょろりと目を剥く。
しのぶは沢木と黒田に素性を突っ込まれそうで胸がドキドキし始める。夫の達彦も週に1、2回「かおり」に通っていたからには、沢木と黒田が達彦を知っている可能性は極めて高い。そんな2人に自分の素性を知られることはしのぶは出来るだけ避けたかった。
しのぶは助けを求めるようにカウンターの中の香織を見たが、香織はフリー客の相手に忙しそうで、しのぶの視線には気づかないようだった。
「……彩香ちゃん」
しのぶはようやく沢木に自分のことを呼ばれていることに気づき、あわてて「は、はい」と答えた。
「どうしたの、ぼんやりして」
「……すみません」
沢木が差し出す空のグラスを受け取ったしのぶは、あわてて水割りのお代わりを作る。
「いくら自分の本名じゃないといっても、名前を呼ばれているのに気づかないのはどうかな」
「えっ」
しのぶは驚いて沢木を見る。
「あ、カマをかけたらあたっちゃったか。どうも彩香なんて今風の名前は似合わないと思っていたんだけど」
沢木はニヤニヤ笑いながらしのぶを見る。
「……い、意地悪ね、沢木さん」
しのぶは少し頬を膨らませてうつむく。
「ほお、わしには彩香っちゅう名前はぴったりに思えたけどな。こんな若い別嬪さんに向かって、今風の名前が似あわんというのは失礼と違うか」
「僕は客商売ですからね、人を見るのはお手のものですよ」
「わしも客商売やで」
「コンビニのお客さんと証券会社のお客さんを一緒にしないでください。払うお金の桁が4つは違います」
「ふん。おもろないな」
黒田は鼻を鳴らして水割りをあおり、空になったグラスをしのぶに差し出す。
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