裕子は常に娘たちに対して自信をもって接していた。良き妻、良き母親、そして家庭の外では大学の講師でPTA会長、自らの生き方に恥じることがなかったからである。そんな母親に対して2人の娘も尊敬を抱いていたといえる。
しかし今、香織たちの性の奴隷に落ちた自分は、先程も貴美子に対してもまともに目を見て話すことが出来なかった。いつもの裕子からは考えられないおどおどとした様子を、貴美子はどう受け止めただろう。
(駄目だわ……しっかりしないと、家族までおかしくなってしまう)
裕子はそんな弱気を無理やりに振り払い、里佳子の部屋のドアを開ける。
「……里佳子」
裕子はそっと問いかける。里佳子はベッドの中でドアに背を向け、布団を頭でかぶって横たわっている。
「里佳子、どうしたの、大丈夫」
出来るだけ落ち着いた、優しい声音で裕子はたずねるが、里佳子は母親を拒絶するようにぎゅっと身体を堅くする。
「里佳子……」
「……あっちへいって」
「え?」
裕子は里佳子の言葉に驚き、問い直す。
「お母さんと話したくないの。あっちへ行って!」
「里佳子……」
裕子は茫然とドアの傍で立ち尽くす。
「わかったわ……用があったら言ってね」
裕子はそっとドアを閉める。扉の向こうから里佳子がわっと泣き出す声が聞こえてくる。
里佳子にいったい何があったのだろう。そして、ずっと帰ってこない夫の道夫――自分が長い間かけて築いた家庭、その象徴とも言えるニュータウンの瀟洒な家――それらが実はただの砂上の楼閣に過ぎないということに裕子は気づく。裕子がこだわり、たっぷり予算をかけた欧州風の優美な内装も急に色あせて見えるのだった。
月曜の朝、里佳子が起きたとき、やはり母はいなかった。いつもは里佳子より遅い姉の貴美子が珍しく早起きし、2人分の朝食を用意している。
「ここのところお母さん、なんだか変ね。以前なら前の日にいくら遅くなっても、朝は必ず私達を見送ってくれたのに」
貴美子が首をかしげながら、焼き上がったトーストをオーブントースターから取り出す。
「お母さんほどうまくは出来なかったけど、どうぞ召し上がれ」
貴美子は微笑みながら里佳子のカップに紅茶をいれる。里佳子の前にトースト、サラダ、ヨーグルトが並んでいる。
里佳子はサラダに口をつけるが、すぐに箸を置く。
「食欲がないの? 里佳子」
「ごめんなさい……せっかくお姉さんが用意してくれたのに」
「紅茶だけでも飲んで行ったら?」
里佳子はうなずき、ティーカップを手に取る。上質の紅茶の良い香りが里佳子の鼻孔を刺激する。里佳子は少し穏やかな気分になるが、やがて何かが足らないことに気が付く。
(お母さん……)
朝食の時いつも側にいる母親の裕子がつけている控えめなコロンの匂いがしないのだ。香りひとつで人の気分はこれほど違ってくるのか。
母は今日も、加藤しのぶとともに恥ずかしい早朝ジョギングを強いられたのだろうか。そして終点の東公園では口に出すのもおぞましいあの行為を……。
あの母が好き好んであんな淫らなことをするはずがない。きっと何かの事情で無理やりさせられているに違いない。
里佳子は昨日、自分が母親に対して取った態度を悔やむ。
(やはり母に相談すべきだっただろうか……あのことを)
「里佳子?」
急に顔を青ざめさせ、押し黙った里佳子に、貴美子が心配そうに声をかける。
「身体の調子でも悪いの? 学校へ行ける?」
「だ、大丈夫よ。たいしたことないわ」
里佳子はわざと快活そうな声を出したが、結局貴美子が用意してくれた朝食を里佳子はほとんど口にすることが出来なかった。
気遣わしげに見送る貴美子を後に小椋里佳子は重い足取りで東中に向かった。
その日の4時間目の授業は小塚美樹の担当する英語だった。たちまち土曜の昼から日曜の朝にかけての、美樹のマンションで受けた弄虐の記憶が生々しくよみがえり、里佳子は顔を俯かせる。
美樹は何もなかったように平然と授業を続ける。里佳子が時折顔を上げるとたちまち美樹と目が合いそうになり、慌てて顔をそらす。
長い授業が終わりに近づき、里佳子の緊張が一瞬緩みかけたところに美樹の声が飛んだ。
「小椋さん」
「は、はいっ」
里佳子はびくっと身体を震わせ、立ち上がる。クラスの一同は美樹に指名されて慌てた里佳子を見て、優等生の里佳子にしては珍しく居眠りでもしていたのかと、どっと笑い声を上げる。
「気が入っていないようね。後で職員室に来なさい」
(ああ……)
美樹の声に里佳子は悄然と肩を落とした。
その頃1年のクラスの加藤香奈も、里佳子と同じく授業に全く身が入らないでいた。
里佳子が美樹に呼び出されている頃、香奈はいつものように留美とともに机を向き合わせにして、昼食を取っていた。
(ママ……結局昨日も今朝も会えなかった……いったいどうなっているの)
母親のしのぶは昨夜、香奈がベッドに入るまで帰ってくることはなく、今朝も香奈や、兄の健一が起きて来た時にはすでに家を出ていた。2人のための弁当はダイニングのテーブルの上に用意されていたので、昨夜しのぶが家に帰ったことは間違いない。しかしここ数日、香奈と健一はずっとしのぶと会えないでいた。
父親の達彦に、母のことを問いただして見たが一向に要領が得ない。香奈を目の中に入れても痛くないといった風に可愛がっていた達彦も1カ月以上前から様子がおかしい。それまで抵抗なくおこなっていた香奈との入浴もきっぱりと止めるようになっていた。
留美にそのことを話したら「今まで一緒に入っていたことの方がおかしいわよ。私なんか小学4年になった時から一人で入っているわ」と一笑に付されたのだが。
「ねえ、香奈。聞いた? 昨日のバニーちゃん、背の高い方は小椋さんのお母さんなんだって」
一行に箸が進まない香奈に気づかぬ風に、留美が声を潜めるようにしてに言った。
「えっ?」
「ほら、昨日駅前にいたじゃない。お尻を丸出しにした女の人が2人……あの中の一人が小椋先輩のお母さんだって言うのよ」
香奈は留美の言葉に衝撃を受ける。
「……ま、まさか」
「そのまさかなのよ」
留美の口元に少しばかり意地悪そうな笑みが浮かぶ。


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