第60話 破滅の足音(1)

「……な、なんでもないわ。いきましょう」
「あん、待ってよ」
香奈は顔を背け、足早にその場から立ち去る。
(どうしてあんなことを……ママ)
幸い留美はわからなかったようだが、駅前で露出狂のような格好でティッシュを配っていた女が香奈の母親のしのぶと、里佳子の母親の裕子だということに気づいた人間が自分の他にもいるかもしれない。香奈は思考が停止しそうな衝撃の中で母親の苦境に思いをいたす余裕もなく、ひたすらその場から立ち去ることだけを頭に足を速めていった。

裕子が香織たちの弄虐からようやく解放され、自宅に帰り着いたのはその日の夜9時をまわってのことだった。
蹌踉とした足取りで玄関の鍵を開け、金曜の朝以来2日半振りとなるわが家に足を踏み入れた裕子を、長女の貴美子が出迎えた。
「お帰りなさい、お母さん……」
「ただいま……」
裕子は虚ろな表情を貴美子に向ける。貴美子は母親譲りの端正な顔立ちに険しい色を浮かべている。
「お母さん、どうしたの? 二晩も続けて家を空けるなんて」
「……い、急ぎの原稿を書かなくちゃいけなくなって、家では集中出来ないので大学に詰めていたの……ごめんなさい」
裕子は家に帰るまでに考えていた言い訳を口にする。夫の道夫はともかく、事情を知らない娘たちにはそういってごまかすしかないと裕子は考えていた。
しかし嘘をつく後ろめたさから、貴美子に対して目を合わせることが出来ない。
「お母さんらしくないわね」
貴美子の言葉に、裕子は力無く視線を伏せる。
「体調が随分悪かったようだけれど、大丈夫なの」
「え、ええ……」
生まれて初めて経験した嵐のような弄虐の衝撃と疲労のため、裕子は木曜日の夕方から金曜の早朝まで一度も目を覚まさず眠りこけていた。その後裕子は再び香織に呼び出され、2泊3日コースで厳しい調教を受けていたのである。
裕子の42歳という年齢が信じられないほどの肌にもさすがに疲労の陰が濃く現れており、目の下の隈はファンデーションでは隠しきれないほどである。
「それにしても、メールに返事くらいしてよ。心配したんだから」
「……携帯を修理に出しているの。ごめんなさい」
貴美子は仕事で家に帰れなかったと言いながら、一方で謝ってばかりいる母親に依然として怪訝な顔を向けていたが、やがてふうとため息をつく。
「……お父さんの携帯も壊れているのかしら。こちらも一向に応答なし、行方知れずだわ」
「き、きっと出張だと思うわ。いってなかったかしら?」
裕子だけではなく、道夫の携帯も香織に没収されたままである。その後充電器も取り上げられたので、今は両方とも香織が好きなように操作出来る。貴美子が心配して父と母に打ったメールを、香織は嘲笑を浮かべながら読んでいたに違いない。裕子の胸の中に熱い口惜しさがぐっとわき上がる。
「携帯の電波も届かない場所へ出張なの? 商社マンも大変ね」
「……」
貴美子の何げない言葉が裕子の胸に突き刺さる。
それにしても、道夫はどこに行ったのだろう。香織たちの罠に落ちたあのおぞましい水曜の夜以来、裕子は道夫と会っていない。
木曜はなんとか会社に向かったようだが、裕子が再び香織に呼び出された金曜の朝までは帰って来た気配はない。裕子は急に別の種類の不安に襲われる。
「……里佳子は、どうしているの?」
裕子はその場に次女の里佳子がいないことに気づき、貴美子にたずねる。
「そう、それもあって電話したのよ。昨日は英語の先生のマンションに泊めてもらったそうなの。お昼前に帰って来たんだけれど、すぐに自分の部屋に入って、夕食もとらないで寝ているのよ。お母さんの病気がうつったのかしら」
裕子は貴美子の軽口に答えず階段を上ろうと足をかける。その途端全身に電流のような衝撃が駆け抜け、上がり、裕子は思わず膝をつく。
「ど、どうしたの。お母さん」
貴美子が驚いて駆け寄る。裕子は貴美子に腕を取られてようやく起き上がる。
香織たちに装着されたクリトリスリングがその威力を発揮したのだ。足をあげ、開かれた股間に鎖が食い込み、リングがぐっと裕子の急所を締め付けたのである。
「ああ……」
2日半の淫虐な責めから解放され、家に帰り着いてもいまだに悪鬼たちの手でいたぶりを受け続けなければならない情けなさに裕子は泣き出したい思いになる。かといってリングを外してしまうと、次の調教ですさまじい責めを受けなければならないと香織から言い渡されているのだ。
いったん外して次の調教の前に自分で付け直せば良いものだが、あさましく充血した花芯の根元にぴったりと装着されたリングを見ると、裕子はとても元のように付け直す自信はなかった。
「本当に疲れているのね。もう休んだら? お母さん」
「だ、大丈夫よ。心配ないわ」
裕子は貴美子の手を払うようにして身体を起こし、よろよろと階段を上がり里佳子の部屋の前に立つ。部屋のドアをノックしようとした裕子の手が一瞬止まる。
(ひょっとして……あの姿を見られたのかしら)
裕子は昼間、駅前で扇情的なバニーガール姿でポケットティッシュを配らされていたことを思い出す。ティッシュを配らされていたのはほんの30分ほどのことだったが、その時にたまたま里佳子が通りかかったのだろうか。
カラーのウィグをつけ、濃いメイクをしていたが、里佳子ならそれが母親の裕子だということが分かったかもしれない。あの佐藤文子にも見破られたのである。その姿にショックを受けて里佳子は寝込んでいるのだろうか。
(……多分それは違うわ)
里佳子の自分に似た勝ち気な性格から判断して、裕子がもしそんな馬鹿なことをしていたらまずその理由を母親に問い詰めるだろう。何も言わずにショックで寝込むというのは考えにくい。
(……それなら……どうして?)
裕子の頭の中に最悪の想像が浮かぶ。
香織たちが自分だけでなく、娘の里佳子にも魔の手を伸ばしたのだろうか。
(いや、それはないはず……)
裕子は胸の中に湧いた不安な黒雲を振り払うように左右に大きく首を振る。
香織たちは木曜の朝からずっと裕子としのぶの調教につきっきりだった。沢木も2日間出社せず、黒田も店をスタッフに任せきりであったが、常に香織と一緒であった。
裕子にご執心の脇坂はさすがに昼間は会社に行っていたようだが、里佳子を手にかけるようなリスクを犯すとは思えない。脇坂が単独で出来るのはせいぜい卑劣な盗撮や痴漢行為くらいのものだ。それに脇坂の顔は里佳子もよく知っているから、近寄ることもないだろう。
(それなら……どうして)
あれこれ考えていないでドアを開け、様子を見ればよいのだ。自分は里佳子の母親ではないか。裕子は自分にそう言い聞かせてみて、はっとする。
(私は里佳子に……貴美子にも顔向けの出来ないことをしてしまった)

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