3.蜘蛛の巣(3)

「……あなた」
「大丈夫か? 昨日は随分飲んでいたようだが」
「ご迷惑をかけて申し訳ありません……」
「それはいいが……まだ肌寒いから、風邪をひかないようにしろよ」
「はい……」
妻の声が随分沈んでいることが気になりましたが、私はとりあえず手早く顔を洗うと、洗面所を出ました。
私がダイニングのテーブルで朝刊を読んでいると、シャワーを浴び終えた妻が部屋に入ってきました。妻はすっぴんで、昨日とは違いゆったりとしたトレーナーにパンツという普段着の姿です。こころなしか目元が赤くなっているような気がします。
(泣いていたのか?)
妻の様子が気になった私は、新聞をテーブルに置いて声をかけました。
「どうしたんだ。目が赤いみたいだが」
「あ……いえ、昨夜は寝不足だったからかしら……」
妻は慌てたような顔をして微笑を作ります。私は少々釈然としない気分でしたが、話を続けます。
「それで、昨日はどうだったんだ?」
妻の表情が心持ち硬くなったような気がしました。
「どうって……」
「どうって、じゃないだろ。PTAの役員就任を断る、って言って出かけたんじゃないのか? 藤村さんにはちゃんと話せたのか」
「あ、ああ……そのことですか……」
妻はようやく気が付いたというような顔をして答えます。
「あなた、すみませんが、書記を受けざるを得なくなって……」
「そうか、絵梨子の性格からそうなるとは思っていたが」
「……そうですか?」
「そりゃそうだろう。絵梨子は頼まれたら断れない性格だからな」
妻は何か考え込むような表情をしています。私は妻を元気づけようと、わざと明るい声を出しました。
「そうなのかしら……」
妻はやはり思い詰めたような顔付きをしているので、私は少し心配になって声をかけました。
「どうしたんだ? 絵梨子。何か気になることでもあるのか?」
「いえ……何でもありません」
妻は顔を上げて私に微笑を向けました。
「そういうわけで、役員会で時々家を留守にすることもあるかと思います。あなたや浩樹には迷惑をかけて申し訳ないのですが……」
「それはかまわないが……何だか様子がおかしいな。昨夜何かあったのか?」
「いえ……何でもありません。何もなかったです」
妻は何度も首を振ります。
「そうか……その……道岡さんとかいう人が送って来てくれたが、藤村さんだけに会ったんじゃないのか?」
「え? ああ……」
妻は私の視線を避けるように目を伏せます。
「それが、待ち合わせ場所に行ったら藤村さんだけじゃなくて、次期役員の候補が全員揃っていて……」
「全員?」
「はい……会長候補の犬山さん、副会長候補の毛塚さん、橋本さん、道岡さん、それと藤村さんです」
「橋本さんというのは絵梨子の銀行の上司だった人だと言っていたな。道岡さんというのは昨夜送って来てくれた人か?」
「道岡さんが送って来てくれたんですか?」
「なんだ、絵梨子はそれも覚えていないのか」
私は少なからず呆れました。昨夜の妻は確かにかなり酔っているようでしたが、一応受け答えはしていたし、まさか誰に送られてきてのかも分からないほどだったとは思わなかったのです。
「道岡さんと2人でタクシーで、家の前につけたじゃないか。彼と俺が2人で絵梨子を抱えて玄関まで運んだんだぞ」
「そうですか……」
妻は暗い表情で何か考え込んでいるようです。私はPTAの本部の役員を引き受けてしまったことがそんなに心の負担になっているのかと思いました。
「ところで、橋本さん以外の役員候補はどういう人だ」
「あ、ああ……はい」
妻は私の問いにはっと目が醒めたような表情になりました。
「会長候補の犬山さんは横浜でビジネスホテルや飲食店を経営している実業家だそうです。実は、昨日も犬山さんの中華料理店で会合を開きました。副会長候補の毛塚さんは元町でブティックを経営しています。同じく道岡さんは整形外科のクリニックのお医者さんだそうです」
「そうか、みんななかなか羽振りがいいんだな。ところで、男性でPTAの役員をやるからには、全員B高の出身者なんだろう?」
「はい……4人ともB高ラグビー部のOBだそうです」
「絵梨子は4人のラガーマンによってたかって押し倒された、ってわけだな」
私が冗談めかしてそう言うと、妻は顔色を変えました。
「そんなことはありません」
私は妻の真剣な表情に驚きながらも、宥めるように言いました。
「どうした、絵梨子。今のはただのものの例えだ。つまり、4人がかりで説得されて断りきれなくなったんだろう?」
「あ……はい……そ、そうです」
妻はどきまぎした表情を私から逸らすようにしました。
「まあいいさ。俺も出来るだけ協力するよ。絵梨子も世間が広くなる良いチャンスじゃないか。ただ、酒はあまり飲みすぎるなよ。良い年をした女が酔っ払うのはみっともないぞ」
「わかりました。気をつけます」
私は妻がなぜか終始元気がないのが気になっていました。

それから週末になると妻は、新旧役員の引き継ぎがあると言って出かけるようになりました。それも2回に1回は食事と酒が入るようで、終バスがなくなった時間に妻はタクシーで送られてきます。
1回目は道岡という副会長が送ってきましたが、2回目は毛塚、3回目は橋本という風に毎回違う人間が送ってきます。
PTA役員といういわばボランティアの仕事に就いた妻を応援するとは言いましたし、自分と同じ主婦以外の人間と付き合うことで見聞が広くなることは妻にとって良いことと思っていましたが、こう度々だとさすがに私も不審を抱き始めました。
帰りが遅くならない週末にも妻の表情が妙に暗いことも気になります。しかしその時点では私は、男たちが役員会にかこつけて酒を飲むのを楽しんでおり、妻はそれに付き合わされることが憂鬱なんだろう、といった程度の考えでいました。
妻の変化は他にもありました。
妻と私は週末、たいていは土曜の夜にセックスをするのが習慣になっていましたが、それはいつの間にか隔週になっていました。帰りが遅くなる日曜の前日は、妻があれこれと理由をつけてセックスを拒むようになったのです。

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