私は一瞬キスマークのことを聞こうと思いましたが、なぜかためらいました。
「ところで……誰が送って来てくれたんですか」
「会長の犬山さんだ」
「まあ……」
妻の表情が心持ちこわばったような気がします。
「あとでお礼を言っておかないといけないわ」
「絵梨子、それよりも……」
「わかっています。お酒は控えるようにします」
妻は再び頭を下げます。
「役員の人は男の人ばかりで、どうしてもペースに乗せられて……それにみんなすすめ上手なので……」
「男の人ばかり?」
私は妻の言葉を聞きとがめます。
「藤村さんと一緒じゃないのか?」
妻の表情が一瞬ぎこちなくこわばりましたが、すぐに元の笑顔に戻ります。
「役員会の二次会の参加は、私と藤村さんは女性だからということで2回に1回にしてもらっているの。あなたにも悪いし……」
それで遅くなるのは一週置きなのかと、私は納得しました。
「しかしそれではいつも、男4人に女1人で飲んでいるということか」
「言われてみればそういうことになりますね。あまり気にしたことはありませんでしたが……」
妻はそう言うと私から目を逸らせます。
妻は短大を卒業してから銀行に就職し、三年勤めた後に私と見合いで結婚するまでは処女でした。結婚まで男性との付き合いの経験はほとんどなく、合コンなどにもめったにいったことがないと聞いています。女一人が男四人に囲まれて飲まなければいけない状況を気にしないはずがありません。
昨夜妻が朦朧とした意識の中でつぶやいた「許して」とか「帰らせて」といった言葉は、そういった抵抗感の中から生まれたものではないかとも思いました。
胸元や内腿のキスマークらしきものから、妻が男の役員たちからセクハラめいた行為を受けているのではないかという懸念も頭に浮かびました。しかしながらこの時点では、地元では名の通った私立高校のPTA役員、いずれもそれなりの社会的地位が有る男たちが、まさかそんなことをするはずがないという思いの方が強かったのです。
「まあ、前にもいったが酒はほどほどにしておけ。それに女が一人になるのでは二次会には無理に付き合わなくてもいいんじゃないか?」
「わかしました……でも、これからは必ずお酒は控えますから、二次会には出させてください」
「どうしてだ?」
「会長の犬山さんが、こういった会合は酒が入ってからの方が本音が出て腹を割った話し合いができる。ぜひ私や藤村さんも母親の代表として、交互で良いから参加してくれと。それでなければ役員会がどうしても男の側に片寄った結論になってしまうとおっしゃって……」
「そうか」
確かに男社会ではそういう理屈でいわゆる「ノミニケーション」を重んじる傾向がありました。私も妻に対して同じような理屈で夜の付き合いを正当化したことがありますから、強く反対は出来ません。
「まあ、とにかくほどほどにしておけ。いずれにしてもタクシーで送って来られるような状態になるまで付き合う必要はない」
「わかりました。そうお願いしてみます」
妻はそう言うと私の方を見ながら、言いにくそうにもじもじしています。
「なんだ、何か言いたいことがあるのか?」
「はい……」
私に促されて妻は口を開きます。
「あなた……昨日あんなことがあったのにちょっと言い出し憎いんですが、再来週の土日にかけて、役員全員で旅行に行こうという話がありまして……」
「再来週? 随分急だな」
「引き継ぎも一段落したので、これからはこんなに頻繁に集まることはないし、ひとまずお疲れさまということで打ち上げをしようという話が盛り上がって」
「そうか……」
何かうまく表現できない不安にとらわれていた私は、やめておけ、と言いたかったのですが、積極的に反対する理由もなく、やがて頷きました。
「旅行には藤村さんもくるのか?」
「藤村さんは私が参加しないのなら参加しないと……犬山さんもどうしても無理にとはおっしゃっていません」
そう言われるとますます断りにくくなります。
「わかった。行って来い。折角だからせいぜい楽しんで来い。ただし、今後は酒の入る付き合いは控えるんだぞ」
「ありがとうございます」
妻はほっとしたような表情で私に礼を言いましたが、どことなくその顔色が冴えないのが私には気になりました。
次の朝、出社した私は会議室で、あるシステム会社からの提案を受けていました。ちなみに私は電子出版事業会社の役員をしています。会社といっても社員全員で15名ほどの中小企業です。
提案されているのは安価な電子会議システムで、通常のインターネットブラウザにプラグインとして音声と映像のビューアーを仕込んでいるものです。それ自体は別に珍しいものではありません。
ただ、ストリーミング用のファイルに独自のフォーマットが使われているようで、一般的に普及しているビューアーでは視聴出来ません。ストリーミング映像の処理には定評のあるソフトが使われており、思ったよりも鮮明な画像とクリアな音声が再現されていました。
「このシステムの特徴は、独自のコピーガード機能があるところです」
デモをしているシステム会社の、私とは顔なじみになっている下田という開発担当役員が、ウェブカメラで自分の姿を写しながらスクリーンショットを取ります。
画面に映っているはずの下田の画像は真っ黒になっていたので、私は少々驚きました。
「これはすごいね。どんな仕組みになっているの?」
下田の説明では、CCDカメラでとらえた画像は瞬時に分割され、ビューアー上で統合されるということらしいです。したがって映っている物はいくつかのファイルの合成ですから、スクリーンショットを取っても意味のある画像にならないとのことでした。
「……面白いとは思うけど、社内会議でここまで必要かな。ふつうのストリーミングでいいんじゃないの?」
「いえ、最近は個人情報保護もうるさくなってきましたし……セキュリティを考えると……」
「売り込む先を間違っているよ。うちはベンチャーと言ったら格好いいけど、実態はただの中小企業だよ」
「そうですか……そりゃそうですよね」
下田はあっさりと売り込みを諦めたようです。
私は彼を昼食に誘いました。焼き肉屋でビビンバ定食を食べながら、先ほどのシステムの話をします。
「いやにあっさりと諦めたけど、下田さんらしくないね」
「個人情報って言っても社員のものですしね。会議のストリーミング画像なんて保存する会社はめったにないでしょうし」
「なんだ、売れるはずがないものを売りに来たってわけ?」
「そういうことでもないんですが、いわゆるマーケットリサーチですよ。昼飯代は僕がおごります」
「そんなのじゃ割りが合わないな。カルビ定食を頼めば良かった」
「それじゃあ、いいことを教えて上げますよ。あのシステム、実は結構売れるんです」
「へえ、どこに?」
私はビビンバの具とご飯をスプーンでかきまぜながら聞きます。
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